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新幸福論-五木寛之―青い鳥が去ったあと(要約) [豊かさとは、幸福とはなにか]

新幸福論-五木寛之―青い鳥が去ったあと(ポプラ社)(120920)

著書の要約を以下に記載します。五木氏の悲観論があちこち見れるが、今の時代の幸福論としては、参考になるところもあると思う。

みんな幸福になりたいと思っているが、そこそこ幸せを感じながらも明日に不安を感じ、絵にかいたような幸福のイメージが持てない。
戦後の復興期や高度成長期には具体的な幸福の見取図がありました。
アメリカでありヨーロッパでした。
最近ブータンが世界で最も幸福の国と言われ、GNP(国民総生産)の概念からGNH(国民総幸福度)で国の豊かさを評価するとあたらしい動きが起きています。ブータンでは輪廻転生が信じられ、蚊や虫も殺さないという。
他人の不幸は蜜の味という言葉もある。
江戸の歌人、橘曙覧(たちばなのあけみ)はつつましい生活の中で
「たのしみはまれに魚烹(うおにて)て児等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時」
と自然がもたらすしあわせを歌っている。
ブータンの人たちのように自然な考え方は宮沢賢治の中にある。
「草木国土悉皆[しっかい]成仏」
草や木も虫も魚もすべてこの世に存在するものには命があり、心がある。石や水や星や土にも命がある。
この世に存在するものはみな兄弟と感じて一生生きた賢治。(よだかの星)
少年時代から山や空や海岸などと言葉にならない会話をしていたらしい。

「メーテルリンクの青い鳥」
幸せの青い鳥をさがしにチルチルとミチルは旅に出たが青い鳥は見つからなかった。
家に帰って二人でこの世に青い鳥はいないんだと話していると突然家で飼っていたキジバトがみるみる青い鳥に変身した。
「僕たちはずいぶん長い間あちこち旅して探し回ったけど、青い鳥はここにいたんじゃないか」青い鳥を隣に住む足の不自由な娘に持たせるとたちまち足が治った。
童話はここまでだが、小説では青い鳥はまもなく飛び去ってしまう。
幸せはつかむと消えてしまうものであることを考えさせられます。

ショーペンハウエルはドイツの哲学者ですが「われわれの幸福の9割まではもっぱら健康に基づいている。
健康であることは幸福である条件の一つ。

アランの幸福論
「体と、体の働きですべてが決まるのだ。もっぱら食事押し方や、歩き方、本の読み方、天気の具合で人の心は変化する」
体が人間の心を左右するように人の心のありようが体調を変える」
ほほえむまねをするだけで、心が穏やかになり温まりまわりの人に作用する。

アメリカの心理学者ハワードフリーマンは「長寿と性格の中」で「勤勉で目標に向かい努力し生涯現役で地域社会といみあるつながりを持つ人が長寿」
親鸞は90歳まで生きた。親鸞はなくなる寸前まで働いたそうだ。
貝原益軒は85歳まで生きた。

長寿イコール幸福でない時代の到来。
高齢化社会の中で買って平均寿命であった。50歳からエイジング(耳が遠くなったり、認知になったり、癌にかかったり)に耐えながら、40年間生きなければなりません。
ブッダがなくなったのは80歳ですが当時は長寿は稀有であったが、みんなが長寿になると長寿地獄が起きかねません。

フランクルがアウシュビッツの生活を描いた「夜と霧」の中で夕焼けの美しさでを得る生きる力を得るくだりがある。
コーヒー一杯で生きる喜びを感じることがある。
幸福とはそんな一瞬かもしれない。
私たちは日常で自分の好きなこと、すごく気持ちがいいとか自分が幸福感を感じることをもっと大事にしなければならない。
小さな幸福感が幸せを創る。
幸福のイメージは、時代とともに変わります。世代によってもちがう。男性と女性、民族、職業によっても異なります。
百万人の人間がいれば、百万通りのちがう幸福がある。それを承知で、あえて幸福について正直な感想をのべてみました。わかっていることは、いま新しい幸福観が生まれつつあ¬る、ということです。」

金子みすゞ、宮沢賢治、青い鳥(メーテルリンク)、星の王子さま(サン=テグジュペリ)、かもめのジョナサン(リチャード・バック)、夜と霧(ヴィクトール・E・フランク¬ル)......。
 永く愛される作家や作品にふれながら、明日が見えない時代の幸福とは何なのか、不安に満ちた日々のなかでどう 見つければいいのかを、著者が手さぐりのなかで書き綴る。

Aさんのコメント――引用
「~青い鳥の去ったあと~」
いくつかの著名な寓話を五木さんなりに考察しながら、
これからの幸福について綴ったエッセイ。
特にメーテルリンクの『青い鳥』考察では、
五木さんならではの悲観主義が根底に伺えます。
子供向け絵本では、チルチル、ミチルが青い鳥を探す旅
の最後に自宅で青い鳥を見つけたところで終わるものの、
本物のメーテルリンクの物語では、
最後に見つけた青い鳥がチルチルミチルの元から
飛び去ってしまうという残酷な話だと強調されます。
つまり、幸せとは自分の足元にあるのではなく、
簡単に消えてなくなるものだという解説。
『青い鳥』はそんな残酷な物語なのだと主張されます。
五木さんのこの読み方は面白いとは思います。
ただ、そこまで寂しい見方までしなくてもいいのではないかと
つい反論したくなってしまいました。
最後に青い鳥が飛び去ったということは、
足元にある幸せに気づくと、また次なる幸せを求める旅が始まる。
つまり、幸せを求めるプロセスこそが幸せそのもの。
ブランド品や車、マンションといった物質的欲求、
恋愛・結婚・出産や受験合格、昇進・昇格といった精神的欲求。
手に入れるまでは枯渇感や焦燥感を感じたりするものですが、
いざ手に入れると入手前ほどの熱はなくなってしまうということなのではないかと思います。
ハーバード元学長のデレック・ボックさんも著書『幸福の研究』 の中で、
「経済的に成功した人は、高まった幸福がつかの間で終わることが多い」
なぜなら
 「高所得がもたらす特別の所有物に人々は慣れてしまう。
 結局、贅沢品は必需品に変わって願望が大きくなり、
 以前よりも生活に満足できなくなる」からと指摘しています。
作者のメーテルリンク自身が何を伝えたかったのかわかりませんが、
私は五木さんと異なり、
幸せ探しは自分探しと同じで、結果よりプロセスにこそ意味がある。
つまり、どんな人生であっても今を生きていることが幸せなのだ
と解釈します。
事実は一つ。でも解釈は多様。
だから人間は面白いのですね。

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