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幸福度ランキング世界56位日本の若者が幸せになれない理由 [豊かさとは、幸福とはなにか]

幸福度ランキング世界56位日本の若者が幸せになれない理由(20220506)

国連が3月19日に発表した「世界幸福度ランキング」2021年版では、フィンランドが4年連続で1位となり、2位デンマーク、3位スイス、4位アイスランド、5位オランダと続いた。日本は前年から4つ順位を上げたものの56位にとどまった。「世界と広がる幸福度格差には、コロナよりももっと別の要因が影響している」と言われている。
■2021年世界幸福度ランキングTOP10
1位 フィンランド
2位 デンマーク
3位 スイス
4位 アイスランド
5位 オランダ
6位 ノルウェー
7位 スウェーデン
8位 ルクセンブルク
9位 ニュージーランド
10位 オーストリア

「幸福度」へのコロナの影響は限定的だった?
新型コロナウイルスの幸福度への悪影響より、コロナ禍かで得た「他者との連帯感や仲間意識、つながり」のほうが、幸福度に大きなプラスの影響を与えたと理解できます。

「World Happiness Report 2021」による世界幸福度ランキングは、主に次の6つの項目のアンケート調査を中心に選出されています。
1.人口あたりGDP
2.社会的支援(ソーシャルサポート、困ったときに頼ることができる人がいるか)
3.健康寿命
4.人生の選択の自由度
5.寛容かんようさ(過去1カ月の間にチャリティーなど寄付をしたかなど)
6.腐敗の認識(不満、悲しみ、怒りの少なさ、社会、政府の腐敗が蔓延まんえんしていないか)

確実にいえることがあります。私たちの幸福度には、人生で何をするかを選択できる「自由度」と、相手を受け入れて人とのつながりを作る「寛容さ」が影響する

昨今、日本では度々「女性を軽視する発言」や「女性の社会活躍」が課題として取り上げられています。また、貧富の格差から学業や就業において選択の幅が限られるなどの現象も起きています。「人生で選択できる自由度」は、世界と比較するとまだまだ低いことがうかがえます。

「人は『自分で選ぶことができている』と実感すると幸福度が高まる」ことがわかっていますから、この部分が世界との幸福度格差を埋めるうえで日本の課題であることは間違いないところ。

75年という長期にわたり「人の幸福度」について研究した「ハーバードメン研究」(ハーバード大学)では、人の幸福度に最も影響を与えるのは「温かな人間関係である」と結論づけています。

「温かい人間関係を築くことができた」トップ10%の人は、下位10%の人と比較して専門分野で成功した人が3倍多く、年収も高いという結果も出ています。

温かな人間関係を築くうえで必要となるのが、自分と意見が違う人たち、立場が異なる人たちの意見を聞き、どれだけ理解を示すことができるかという「寛容さ」です。

今回の調査においてこの数値が低かった日本は、科学的な知見からも、世界との幸福度格差を解消していくうえでも、そして、日本人の幸福度そのものを高めるうえでも、「他人への寛容さ」が社会の課題であるといえるでしょう。

温かい人間関係を築くには、「人を愛する力」が最も大きな影響を与えます。これは、精神論ではなく科学的な話です。「人を愛する力」がある人は、相手に興味を持ち、相手の話を聞くようになる。つまりは、相手を受け入れやすくなるのです。

そして、「人を愛する力」の磨き方も科学的に明らかになっています。人を愛する力は「幸せホルモン」といわれる「オキシトシン」の影響を受けます、つまりは、「オキシトシン」が分泌される行動を取ると自然に人を愛する力が身につき、最終的に寛容さも持てるようになって、良好な人間関係が築かれるのです。

オキシトシンが分泌される3つのアクションプラン
良好な人間関係を作るべく、オキシトシンが分泌されるアクションプランを3つ紹介します。

スキンシップ
人と直接触れ合うことでオキシトシンが分泌されることがわかっています。もちろん、コロナ禍においてスキンシップには注意が必要ですが、家族などとハグをしたり、マッサージをしたりすることはオキシトシンの分泌に効果的です。ペットとのスキンシップでもオキシトシンが分泌されるので、ペットを飼うことも幸福度が高まるといえるでしょう。

心が温まる映画を観る
人間の脳には「ミラーニューロン」という神経細胞があります。視覚から得た情報を体験するので、心温まる映画を観ることでオキシトシンが分泌されることがわかっています。

1日5善をする(1日1善は効果がない)
人に親切な行為をするとオキシトシンが分泌されることがわかっています。しかし、1日1回程度の親切では脳に記憶が残らず、幸福度に影響がないことがわかっています(米カリフォルニア大学の研究)。
1日1善よりも1週間に1回の1日5善が科学的に有効です。

コロナ禍でも、日本の幸福度ランキングは、わずかではありますが上昇しました。世界との幸福度格差では「自由度」と「寛容さ」に課題はあるものの、言い方を変えれば「それだけ伸のび代しろがある」ともいえます。

私たち日本人一人ひとりが生きやすい社会をつくるために、自分の幸福度を高めるためのアクションから始める。それが最終的に、世界との幸福度格差を縮めることになる。

(KADOKAWA)星 渉、前野隆司『99.9%は幸せの素人』
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「降りてゆく生き方」映画をみて [豊かさとは、幸福とはなにか]

「降りてゆく生き方」映画を見て
130106

昨日八王子で開かれた自主上映の話題の映画「降りゆく生き方」を見た。
数回見てもいつも感動して涙が止まらなかったとかのコメントが主催者から初めにあったが。
正直見終わってまったく感動はなく、臭くて、やらせの田舎芝居のような内容で、映画としてのレベルは最近見たうちでは最低であった。決してボランティアで出演されている人たちを否定するものではありませんが、もう少し中身のある内容で有ってほしかった。
しかし、驚くのは、2009年公開されてからロングランが続いていること、八王子の会場も満員で若い人や身体障害者らしき人が多かった印象でした。社会運動的な動きになっているのか、何なのか疑問がおきた。
ネットでコメントを拾ってみると以下のようなコメントもあったので引用しておく。
このコメントは理解できるし、映画が社会運動のようになってきているのは、特に企業や社会での激しい競争に疲れ果てた人や、病気や社会の底辺にいる人たちの気持ちを代弁しているからかもしれない。
降りる考えも大切だが、激しい競争に勝つ抜くことも全面否定では困る、バランスの取れた生き方が必要とされよう。


 先日 武田鉄矢さんが主演している「降りてゆく生き方」という映画を見ました。この映画は普通の街の映画館で上映されず、又 DVDにもならないものだということでした。
 そのとおり自主上映という形で倉敷法人会の主催でしたが、会員がチケットを一枚一枚売りさばき、映画会場も真備町の公的な施設で、まさに手づくりの上映会でした。

 内容は武田鉄矢ふんするモーレツサラリーマンが、自然豊かな農村を開発し 外資に売ろうと企て農民の中に入ってゆくのですが、ゆけばゆくほど農村の豊かさ農民の温かさにふれ、最期は自ら会社を辞め農村や農民を守る側につくというものです。

 戦前の日本と戦後の日本、大きく変りました。大家族制から核家族へ。生産共同体から消費共同体へ。もったいないから大量消費の浪費社会へ。家族は家族で看るという自助社会から、何でも国に頼り、何でも国をあてにする社会へ。

 大きな政府、大きな財政、大きな経済、大きな投資、大きな消費、大きな財布、大きな家、大きな車・・・ すべて大きさを求めてゆくようになりました。その結果 物質的には豊かで物があふれる日本になりました。まさに右肩上りが当り前、拡大再生産社会、バブル経済と昇りゆく時代となったのでした。しかしバブルが崩壊し、この右肩上り神話が疑問視され、それからデフレ社会が20年。そして決定的なリーマンショックにより、今の繁栄今の豊かさは砂上の楼閣であり、なんら裏付けのない虚構幻想であったことがはっきりしてきました。

 金融工学という訳のわからない計算上の豊かさ 繁栄であり、一たび夢から覚めてみると うすら寒い時代が到来していたのでした。
 この寒さは人としての本質的な豊かさを放棄し捨て去った 故の寒さです。人としての思いやり、温かさを捨て非情に物や余りを追い求めた故の寒さです。
 結局人はモノやお金では温かくならないことが解ったのです。いや、モノやお金は人を温めるものではないことが分かってきました。

 豊かになった自らの周りをながめ、自らが裸で寒風にさらされていることを、今 我々は一人一人 氣付くべきです。

 昇り来た山頂で凍え死ぬのか、それとも山を下り 山を降りて、もう一度 自らを温めるのか(富士山のふもとは真夏でも、富士山の頂上は0℃以下です)。
 降りてゆく人生、降りてゆく生き方。今こそ必要な生き方です。(これ以上 昇る山もないし、頂上に居れば凍えてしまうわけですから。)
 
 日本人がお腹いっぱい食べる時代はここ50年です。戦前までずっとほとんどの日本人は腹ペコの生活でした。太古から縄文 弥生~平安~江戸~ずっと一日二食、一汁一菜。お米ではなくアワやヒエなどを食べ、土日もなく朝から晩まで働いていたのです。栄養がどうの、働きすぎがどうの、それ以前のところで精一杯生きていたのです。

 昭和、平成のここ50年です。テレビやコンビニなどで、真夜中でも何不自由なく昼間と同じ生活ができるのは。何千年も何万年も日本人は太陽が出れば起きて、太陽が沈めば家族だんらんの時を持ち床に就く生活を行なっていたのです。

 もう一度昇ること、拡大すること、貯めること、将来に不安を持つことをやめ、降りてゆくこと、縮小すること、捨てること活かし生かすこと、今 ここをしっかり感謝して生き抜いてゆく生活になってゆきませんか。  足るを知り、感謝に満ち満ちた生活。物に固執せず 人に固執する生活。家族、家を大切に他人を思いやる生活。足りないところ、足りない物を補い合う生活。余っている物を人に分け与え合う生活。

 こんな「降りてゆく生き方」をする時代なのかもしれません。
 山登りは山へ登るだけでは山登りになりません。山を下って降りてこその山登りです。人生が山を登るようなものならば、当然 降りることも人生そのものです。

 私もこの「降りてゆく生き方」を上映したく申し込んでいます。来年 創業記念日  6月1日 上映し、皆さんと見る事を楽しみにしています。


 代表社員 前原 幸夫

原発をとるか便利な生活をとるか覚悟を求めるー倉本總ーNHKラジオ深夜便ーこころの時代 [豊かさとは、幸福とはなにか]

原発をとるか便利な生活をとるか覚悟を求めるー倉本ーNHKラジオ深夜便ーこころの時代

121213ラジオ深夜便よりーNHK深夜便ストリーミングで無料で聞くことができます。
http://www.nhk.or.jp/shinyabin/jyoyou.html


原発なくして不便な生活に戻れるか、原発と共存して今の便利さを求めるのか、倉本總さんが講演会でどちらを選ぶのか、挙手で聞いてみたところ、若者の70%は今の生活を続けたいとの意見であったそうだ。
一度味わった、甘い蜜は失いたくないということでしょうか。昔を知らないということもあるでしょうか。
他方、中高年の聴衆は70%は昔に戻りたいという意見でした。

今の日本人個人が使っているエネルギーを3/5にすると1970年代(3丁目の夕日の時代)の昭和にもどれる。
このエネルギーレベルは今の一般の先進国のレベルでもあるそうだ。
日本は無駄にエネルギーを使いすぎて便利すぎる。3m歩けばよいのにリモコンを使う必要があるでしょうか。

はじめ人類は人力と動物の力をエネルギーとして使っていた。産業革命(17世紀)がはじまり化石燃料の利用が始まり、石炭、石油、原子力へと変遷していく。
もともと石油の埋蔵量は2兆バーレルと言われていた。
そのうち1.2兆バーレルが既に使われた。
2兆バーレルというとすごく大きく思われるが、富士山の山頂の3合目までの容量に過ぎない。
そんなに大量ではないのだ。
これから生きていくには覚悟がいる。
原発事故覚悟で成長経済を求め便利な暮らしを求めるか。
昔の不便な暮らしに戻っても、安心で幸せな暮らしを求めるのか。
腹を決める覚悟がいる。

ぼちぼち私も高齢で死期が近かづいてきている。
死ぬときは楽に死にたい。いつ死んでもいいが、苦しむのは嫌だ。
死は本人が悩み苦しむもので、残された家族はどうでもよい。

向田邦子が考える幸福とはnk120927 [豊かさとは、幸福とはなにか]

向田邦子が考える幸福とは

向田邦子は「幸福」という本を書きたいと言ったのは、乳がんで余命を宣告された後だという。
「幸福」という本で繰り返し言ったのは
素顔の幸福は、思いがけない片隅に転がっています。 屑ダイヤより小さいそれに気づいて掌にすくいあげることができる人を幸福な人という。
幸せな人になる秘訣が短い文章の中に簡潔に表現されている。
メーテルリンクの青い鳥にも同じような表現がある。幸せのシンボルである青い鳥を探しに二人の兄弟が旅に出るが結局その青い鳥は家の中の鳥かごの中いという話。
幸福はどこか外にあるものではなくもっと身近な心の中にある。
世の中にあふれる沢山のものやお金、地位や名誉を手に入れるのが幸福ではありません。
心の中に抱く感謝の気持ちそれが幸福の源。
お金さえ出せばほしいものは何でも手に入る豊かな現代。欲望のままに生きることに慣れてしまい、恵まれた環境を当たり前と思い、謙虚な気持ちや、感謝を忘れていないでしょうか。
「幸福とは生きていることを感謝する気持ちから生まれる」と日野原重明先生(100歳)は言っています。

飽食の時代に心まで飽きていませんでしょうか。

新幸福論-五木寛之―青い鳥が去ったあと(要約) [豊かさとは、幸福とはなにか]

新幸福論-五木寛之―青い鳥が去ったあと(ポプラ社)(120920)

著書の要約を以下に記載します。五木氏の悲観論があちこち見れるが、今の時代の幸福論としては、参考になるところもあると思う。

みんな幸福になりたいと思っているが、そこそこ幸せを感じながらも明日に不安を感じ、絵にかいたような幸福のイメージが持てない。
戦後の復興期や高度成長期には具体的な幸福の見取図がありました。
アメリカでありヨーロッパでした。
最近ブータンが世界で最も幸福の国と言われ、GNP(国民総生産)の概念からGNH(国民総幸福度)で国の豊かさを評価するとあたらしい動きが起きています。ブータンでは輪廻転生が信じられ、蚊や虫も殺さないという。
他人の不幸は蜜の味という言葉もある。
江戸の歌人、橘曙覧(たちばなのあけみ)はつつましい生活の中で
「たのしみはまれに魚烹(うおにて)て児等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時」
と自然がもたらすしあわせを歌っている。
ブータンの人たちのように自然な考え方は宮沢賢治の中にある。
「草木国土悉皆[しっかい]成仏」
草や木も虫も魚もすべてこの世に存在するものには命があり、心がある。石や水や星や土にも命がある。
この世に存在するものはみな兄弟と感じて一生生きた賢治。(よだかの星)
少年時代から山や空や海岸などと言葉にならない会話をしていたらしい。

「メーテルリンクの青い鳥」
幸せの青い鳥をさがしにチルチルとミチルは旅に出たが青い鳥は見つからなかった。
家に帰って二人でこの世に青い鳥はいないんだと話していると突然家で飼っていたキジバトがみるみる青い鳥に変身した。
「僕たちはずいぶん長い間あちこち旅して探し回ったけど、青い鳥はここにいたんじゃないか」青い鳥を隣に住む足の不自由な娘に持たせるとたちまち足が治った。
童話はここまでだが、小説では青い鳥はまもなく飛び去ってしまう。
幸せはつかむと消えてしまうものであることを考えさせられます。

ショーペンハウエルはドイツの哲学者ですが「われわれの幸福の9割まではもっぱら健康に基づいている。
健康であることは幸福である条件の一つ。

アランの幸福論
「体と、体の働きですべてが決まるのだ。もっぱら食事押し方や、歩き方、本の読み方、天気の具合で人の心は変化する」
体が人間の心を左右するように人の心のありようが体調を変える」
ほほえむまねをするだけで、心が穏やかになり温まりまわりの人に作用する。

アメリカの心理学者ハワードフリーマンは「長寿と性格の中」で「勤勉で目標に向かい努力し生涯現役で地域社会といみあるつながりを持つ人が長寿」
親鸞は90歳まで生きた。親鸞はなくなる寸前まで働いたそうだ。
貝原益軒は85歳まで生きた。

長寿イコール幸福でない時代の到来。
高齢化社会の中で買って平均寿命であった。50歳からエイジング(耳が遠くなったり、認知になったり、癌にかかったり)に耐えながら、40年間生きなければなりません。
ブッダがなくなったのは80歳ですが当時は長寿は稀有であったが、みんなが長寿になると長寿地獄が起きかねません。

フランクルがアウシュビッツの生活を描いた「夜と霧」の中で夕焼けの美しさでを得る生きる力を得るくだりがある。
コーヒー一杯で生きる喜びを感じることがある。
幸福とはそんな一瞬かもしれない。
私たちは日常で自分の好きなこと、すごく気持ちがいいとか自分が幸福感を感じることをもっと大事にしなければならない。
小さな幸福感が幸せを創る。
幸福のイメージは、時代とともに変わります。世代によってもちがう。男性と女性、民族、職業によっても異なります。
百万人の人間がいれば、百万通りのちがう幸福がある。それを承知で、あえて幸福について正直な感想をのべてみました。わかっていることは、いま新しい幸福観が生まれつつあ¬る、ということです。」

金子みすゞ、宮沢賢治、青い鳥(メーテルリンク)、星の王子さま(サン=テグジュペリ)、かもめのジョナサン(リチャード・バック)、夜と霧(ヴィクトール・E・フランク¬ル)......。
 永く愛される作家や作品にふれながら、明日が見えない時代の幸福とは何なのか、不安に満ちた日々のなかでどう 見つければいいのかを、著者が手さぐりのなかで書き綴る。

Aさんのコメント――引用
「~青い鳥の去ったあと~」
いくつかの著名な寓話を五木さんなりに考察しながら、
これからの幸福について綴ったエッセイ。
特にメーテルリンクの『青い鳥』考察では、
五木さんならではの悲観主義が根底に伺えます。
子供向け絵本では、チルチル、ミチルが青い鳥を探す旅
の最後に自宅で青い鳥を見つけたところで終わるものの、
本物のメーテルリンクの物語では、
最後に見つけた青い鳥がチルチルミチルの元から
飛び去ってしまうという残酷な話だと強調されます。
つまり、幸せとは自分の足元にあるのではなく、
簡単に消えてなくなるものだという解説。
『青い鳥』はそんな残酷な物語なのだと主張されます。
五木さんのこの読み方は面白いとは思います。
ただ、そこまで寂しい見方までしなくてもいいのではないかと
つい反論したくなってしまいました。
最後に青い鳥が飛び去ったということは、
足元にある幸せに気づくと、また次なる幸せを求める旅が始まる。
つまり、幸せを求めるプロセスこそが幸せそのもの。
ブランド品や車、マンションといった物質的欲求、
恋愛・結婚・出産や受験合格、昇進・昇格といった精神的欲求。
手に入れるまでは枯渇感や焦燥感を感じたりするものですが、
いざ手に入れると入手前ほどの熱はなくなってしまうということなのではないかと思います。
ハーバード元学長のデレック・ボックさんも著書『幸福の研究』 の中で、
「経済的に成功した人は、高まった幸福がつかの間で終わることが多い」
なぜなら
 「高所得がもたらす特別の所有物に人々は慣れてしまう。
 結局、贅沢品は必需品に変わって願望が大きくなり、
 以前よりも生活に満足できなくなる」からと指摘しています。
作者のメーテルリンク自身が何を伝えたかったのかわかりませんが、
私は五木さんと異なり、
幸せ探しは自分探しと同じで、結果よりプロセスにこそ意味がある。
つまり、どんな人生であっても今を生きていることが幸せなのだ
と解釈します。
事実は一つ。でも解釈は多様。
だから人間は面白いのですね。

Happy「しあわせを探すあなたへ」----映画を見て [豊かさとは、幸福とはなにか]

Happy「しあわせを探すあなたへ」----映画を見て

Happy「しあわせを探すあなたへ」120828映画見る(渋谷uplink)
ロコ・ベリッチ監督ドキュメンタリー、清水ハン栄治
エド・ディナー博士

ハリウッドで豪邸に住んでいる富裕層があまり幸せそうではない。アメリカは幸福度で世界23位と低い。そこで監督は4年かけて世界を巡り、幸福度研究の博士などを交えて幸福探しのロケを行った。何が幸福感を与えるのかについて、心理学や脳医学の権威たちが語り、サーファーやコメディアンら多彩な顔ぶれが登場する米ドキュメンタリーだ。
アメリカは経済は1950年から2010年までに3倍成長したが幸福は増えなかった。
コルカタのスラム街に住む人力車の運転手は、家族や友人に囲まれ笑顔が自然。事故で顔が変形した米女性は全てを受け入れることで平静に。人とつながることで喜びは生まれる、感謝すべきことを書けば幸福につながる
幸福は自分で見つけるしかないーーーーフランクリン
貧しくても幸せー支えあって生きている。

40%はinternal behaviorで決まる。
お金が増えても幸せにならない。
自然との一体感が幸福感を生むーーードーパミンがでる
(ドーパミンがなくなるとパーキンソンになる)
大自然との調和――サーファーの人生観―――運動がよいー体を使う

自分の好きなように生きる
すべてを受け入れると逆境からもどる
自己中心的で幸せな人はいない。
慈愛は幸福を招く
友人と仲良くする
日本は不幸な国――長時間労働や過労死――効率の限界―物質や経済成長が優先している
成長するために、文化を破壊し、環境を壊した。
日本は優しくなればより幸福になる
幸福度の高い人はーーコミュニティ貢献と関係があるーー困っている人を助ければ本人の心が満たされる。
ブータン
NGH――――自分の中に幸福がある。ものではない。
人々が幸福になる環境を作るのが政府の仕事。
成長は文化を破壊し、環境を犠牲にした。
教育、医療タダで、コハウジングが特徴。
食事を一緒にする。
共同で暮らす。
他人が持ち自分で持たないものはシェアすればよい。
デンマークは世界一幸福な国と言われている。

沖縄の100歳以上は世界一
農作業をする
歌って踊る
公民館サロンに集まり友達がいる。
人の絆
交流
人のために働く協働がうれしい。ドーパミンが出る。
人とつながると心が豊かになる。
心の目を閉じたら困るでしょう。---ヘレンケラー

アフリカ
自然と助け合って暮らす。
一緒にやることで幸せを感じる
笑うことが大切
ダライラマ
愛情は生まれた時から心の中にある
慈愛瞑想
定期的に親切なことをすると幸福度を上げる
感謝をすれば豊かになる
新しいことを始めること

うまくまとまっていないが、映画のキーワードをメモしてみた。
何かが見えてくるように思います。

幸せの経済学―uplink映画(高坂勝コメンテーター)20120603 [豊かさとは、幸福とはなにか]

幸せの経済学―uplink映画(高坂勝コメンテーター)20120603

渋谷のuplinkという小さな映画館で幸せの経済学という映画があった。
20名くらいでいっぱいになるミニシアターだ。
そこで見た映画の内容は、グローバリゼイションー規模拡大を前提とした経済社会の限界と、小さくなることによる、人間性の復活や自然との融和などのローカリゼイションの可能性についてのものでした。
1956年アメリカは幸福度最高であった。
グローバライゼイション、限りない成長を求めて、現代社会は比較と競争によりグローバルに発展してきた。
しかし多くの弱者を苦しめてきた。
孤独な人は幸せにはならない。
2010年日本の大卒の50%余りが正規社員としての職についていない。
経済効率の名の下で働く楽しみ誇りを奪ってしまった。

インドの田舎の事例の紹介がある。みんなが仲良く協力して生きてきた。地元の地産食品で充分幸せな暮らしをしていた。
そこに新しい文化が入ってきて、人々は競争するようになりトラブルが起き、限りない欲望、消費社会に入っていく。
誰かに知られ、認められる社会――ローカライゼイション、地産地消、自然とのふれあい、ローカルフード
経済成長には限界がある。――――ローカライゼイションは重要だ。

高坂勝コメント
丸井に勤めていた時600万円の収入であったが今は、300万円。
収入は半分になったが、今は週休3日で、昼寝付きで、夕方から少し飲み屋をやっている。
狭い店で成長しないで幸せになる店をやっている。
自分で有機農業で野菜と田んぼで米を作っている。
自分でできることを増やす。
予防医学で医療費は1/3になる。ダウンシフティングを自分でやっている。

グローバリゼイションは500年前に産業革命で生まれた。
派遣社員なんて10年の歴史しかないのに、社会を壊した。

お金がなくても質素に楽しんで生きればよい。
テレビエアコン冷蔵庫照明なんていらない。
10万円で簡単な太陽発電で何とかなるもんだ。
小さくすれば人と自然の関係を強くする。成長が人々の不和を生み、
経済的圧力がコミュニンティと自然の関係がこわれた。
「半農半X」バリ式農業―半分踊り暮らし、半分働く
限界集落へ若者がいくーー昔の知恵を利用してローカリゼイションが進む。

「ミニマム主義」-経済成長のない小さいことのメリット、でも幸せ
1960年代まで自営60%で今90%がサラリーマン。
2004年シアトル反乱―米カナダメキシコの自由貿易でカナダメキシコがひどい目にあった。
経済成長が人を苦しめる。TPPの内容には注意がいる。

出会うこころー岡部伊都子を読んで [豊かさとは、幸福とはなにか]

「出会うこころ」を読んでー岡部伊都子
120415
はじめて岡部伊都子の本を読んだ。
出会うというと人と出会うのが普通だろうが、ここには景色に出会う、本に出会う、歴史的な人に書物などで出会う、美しい雲に出会う。いろいろな出会いを紹介している。
豊かな出会いは本当の豊かさをもたらす。
いろいろな出会いを持つには、こちらの心に余裕がないとチャンスが得られないようだ。

マザーテレサ讃歌
何日も食べていないヒンズー教の家族にコメを少し持っていくと、その家の母親は半分を隣のイスラム教の家に持って行ったそうだ。あなたの家族は10人もいて隣人にあげるほどないでしょうと言うと、母親はあの人たちもずーと食べていないのですと答えたそうです。
「プア イズ ビューティフル」
貧しくて飢えて病み「いなくていいもの」とされる存在から素晴らしい魂があふれ、喜びに恵まれるとマザーは言った。
宗教民族を越えて愛せない世界の方が貧しいのではないか。

あとがき
「しあわせとは、どういうことですか」
若くて健康なキャリアウーマンに尋ねられた。幸せのただなかにいると思われる方が「昔はお掃除や台所もみんな悟りへの道だったのですね。今は何でも楽ですが何か大切なものを見失っているような気がする」といった。
物はいっぱいあるけれど「本当のもの」を知らない寂しさが語調に見られた。
失ってはならなかった人類や生命体の宝が、宇宙自然現象からも世界各地からもどんどん消えてゆく寂しさをどう止めていけるのかが著者の喘ぎであるという。

「風の良寛」 中野孝次より「これからのセカンドライフを考える」 [豊かさとは、幸福とはなにか]

「風の良寛」 中野孝次より「これからのセカンドライフを考える」
120409

実に質素に、自然とともに、名利、地位財産も求めず、淡々と生きたすごさは、これからの時代の生き方に大いに参考になると思う。国民全体が貧乏になるからではなく、物質的豊かさから離れても十分人として豊かに生きられることを実証してくれたからだ。 若者たちが良寛的な生き方をみんなやっていたら日本経済は間違いなく破たんするだろう。若者は環境など考えながら永続可能な社会づくりに汗を流すべきだろう。経済基盤は無視はできない重要な要素だ。 特に生産活動、経済活動をしていない団塊世代などはセカンドライフに利用したらよいと思う。

 自分の命は、どこからきて、どこに行こうとしているのか。私はこの無限の疑問にとらわれ、草庵の窓の下で坐禅しながら、正しい姿勢で静かに瞑想しているが、いくら考えても、そもそもの始めもわからないのだから、終わりがわかるはずもない。始めと終わりばかりか、現在のこの自分さえわからない。思えば万物はへめぐり来たってすべて空か。自分という者もまた、空の中にしばらく存在するにすぎぬ。そんなところにどうして、是だの非だのがあろう。だから自分は、どうこういうことなく、なるがままにまかせてゆったりとした気持ちで、この束の間の人生を生きよう。(p95~98)
草の庵に 足さしのべて小山田の 山田のかはづ 聞くがたのしさ (良寛)

 こういう心の有り様を、現代人は味わうべくもあるまい。じっと蛙の声に耳を傾ける代わりに、たちまちテレビをつけ、らちもない画像にげらげら笑いする。

 じっとしている。何もしないでいる。自然の中に心を遊ばせるという良寛がしたことを、現代人はもうできなくなっているのだ。

 絶えず映像や音声の氾濫の中にあり、刺激なしにはいきられなくなっている。これでは良寛の、また昔からの古仏達の味わってきた深い心の充実など、もはや求むべくもない。

 文明が進歩すれば人間が幸福になる、というのは間違いであった。テレビなんてものができたために、人間は途方もなく浅薄になった。人生を自分一人の力で味わう力がなくなったとでもいうしかあるまい。

 だれでも、できれば自分一人の力で生きているということを味わい、深い安心を得たいと願っているのである。無為の充実。充実した単純さ くらい上等なものはないと良寛を通じて人は知る。その点でも良寛は現代人の対極にいる。(p107)
とかく人は、禅僧が悟りを得た。大悟一番したといえばそれっきりで終わりで、悟りの状態は何もしないでも生涯続くかのように思いがちだが、そんな安直なものではないのだ。むしろ、悟りをひらいたあとにこそ本格的な修行が始まる。これは、悟りというものが固定した何かでなく、修行によってのみ保たれる精神の状態であるからにほかならない。(p138)
「徒然草」に
名利に使われて 閑かなる暇なく 一生を苦しむるこそ 愚かなれ(第38段)欲がある限り、人はいくら物や金を持っても充足しないことを、われわれはあの
欲がある限り、人はいくら物や金を持っても充足しないことを、われわれはあの高度成長中の日本・日本人においてさんざんに見た。物の所有には自足するときがなく、つねに他人の所有と比較することになるから、他人が自分よりいい物をもっていればそれ以上の物をと意欲する。互いに競い合い欲の炎を燃やし続けたのがあのころの日本人であった。いい按配にバブルがはじけ、それ以後あの病は一応収まったかに見えるが、欲がある限りはいつでもまた再現するだろう。
その欲を元から断つのである。そうすれば、粗末な食い物でも空きっ腹にはうまく味わわれるし、ボロでも寒さふさぎに役立つ。とにかく欲がないから自由で、天下に自分を拘束するものはない。そこで、気の向くまま山林に入っては鹿と遊んだり、村に出かけては子供らと毬つき歌を高らかに歌う。名利を求める心がないから、何をしても自由なのだ。世間の嫌なことを聞いたら、堯帝から天下を譲ると聞いて耳が汚れたと、許曲が穎水で耳を洗ったという故事さながら、崖の下の清い水で耳を洗う。そして、嶺に鳴る松風の音を聞いて気持ちを清らかにする。(p157)

とある。たとえどれほどの富を得、どれほどの名声を得ようと、そういう外物のために捧げた生ほど愚かしいものはないのは、ちょっと考えれば誰にでもわかることだが、世の人の多くはそっちを選んでしまう。

四畳半くらいに小さな住まい

良寛50代の住まいー五合庵 
ここで子供たちと戯れ、時間を過ごした。何もない狭い庵は無限の豊かな空間なのかもしれない。
外人に言わせれば「シンプルライフ」かもしれないが、もっともっと奥が深い。日本人の文化は底知れない。

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幸せな子―アウシュビッツを一人で生き抜いた少年  を読んで(普通に生きれることの幸せを思う)  [豊かさとは、幸福とはなにか]

幸せな子―アウシュビッツを一人で生き抜いた少年  を読んで(普通に生きれることの幸せを思う) 
[著]トーマス・バーゲンソールー120404

もう10年くらい前に学会の関係でポーランドに行く機会があった。ワルシャワから数時間汽車でアウシュビッツとビルケナウへいった。そこで数百万のユダヤ人がガスで殺された場所だ。
そこでは髪の毛で織った繊維とか、人体から作った石鹸だとか展示されていた。
ベッドは藁(わら)むき出しの粗末なもので夏の暑さや冬の寒さの厳しさは容易に想像できた。地下のガス室には一人で入ったが、鳥肌が立つようにひんやりと薄気味が悪かった。人間はここまでやるのかと思われるくらいの残酷さを感じた。
紹介する本はこの環境を運で生き延びた子供の物語である。「幸せな子」とのタイトルであるが決して幸せではなっかたと思う。「ラッキーな子」がふさわしいだろう。極限の不幸体験を知ることで「ただ普通に生きれる幸せを自覚することができる意味では良い本であると思う。

■信念とけなげさに幸運が目を止めた
 1944年のアウシュビッツ収容所は食べる物さえろくになく、人々はやせ衰え、働けなくなればガス室に送られた。子どもは役に立たないからと、多くが殺された。
 その地獄を、10歳で親と引き離されたトミー少年が奇跡的に生きのびる。一体どうやって生き抜いたのか――。
 著者のトーマス・バーゲンソールは国際司法裁判所の判事。チェコ生まれの米国人だ。ホロコーストが「歴史化」していく中、その一つ一つの生や死に人間の顔があるのだということを訴えようと、体験を本にした。
 生きのびたのは、一言でいえば幸運だったからだ、と著者はいう。
 収容所でガス室送りの選別があったとき、親しくなったポーランド人の医師が、リストからトミーの名前をこっそり外しておいてくれた。
 チェコを移送される貨車で、食べ物がなくて死にそうになったとき、跨線橋(こせんきょう)から地元の人たちがパンを投げてくれ、おかげで持ちこたえた。
 しかしそうした幸運は、トミーが自分から呼び込んでいるように思える。
 親衛隊が子どもを選別しているとき、彼は前に出て「大尉殿、僕は働けます」と訴える。面食らった大尉はトミーを選別から外してしまう。
 またある時は「子どもは前に」という命令を無視して列の後ろに隠れる。大人に押されても前に出ず、そこでも選別をまぬがれる。
 自分は絶対にお父さんやお母さんに会える。彼はそう信じていた。生きることをあきらめた多くの人々の間で、彼の生きようとする信念とけなげさはひときわ光っていたのだろう。だから幸運が彼に目を止めたのだ。
 アウシュビッツからの「死の行進」の途中、選別がある。グラウンドを端から端まで走れ。走れなかったらガス室だ。大人が力つきて倒れる中、トミーは親衛隊と軍用犬の間を必死で走りぬけた。ここであきらめるつもりはなかった、と彼はいうのだ。
 先行きの見えない時代である。そんな時代にいる私たちに、10歳の子が生き方を教えてくれている。

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