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良寛のライフスタイルの中には幸せの原点がある [貧しくても心豊かに暮らす法]

良寛のライフスタイルの中には幸せの原点がある
ブログより

>「風の良寛」 中野孝次より「これからのセカンドライフを考える」
120409
実に質素に、自然とともに、名利、地位財産も求めず、淡々と生きたすごさは、これからの時代の生き方に大いに参考になると思う。国民全体が貧乏になるからではなく、物質的豊かさから離れても十分人として豊かに生きられることを実証してくれたからだ。
若者たちが良寛的な生き方をみんなやっていたら日本経済は間違いなく破たんするだろう。若者は環境など考えながら永続可能な社会づくりに汗を流すべきだろう。経済基盤は無視はできない重要な要素だ。
特に生産活動、経済活動をしていない団塊世代などはセカンドライフに利用したらよいと思う。

自分の命は、どこからきて、どこに行こうとしているのか。私はこの無限の疑問にとらわれ、草庵の窓の下で坐禅しながら、正しい姿勢で静かに瞑想しているが、いくら考えても、そもそもの始めもわからないのだから、終わりがわかるはずもない。始めと終わりばかりか、現在のこの自分さえわからない。思えば万物はへめぐり来たってすべて空か。自分という者もまた、空の中にしばらく存在するにすぎぬ。そんなところにどうして、是だの非だのがあろう。だから自分は、どうこういうことなく、なるがままにまかせてゆったりとした気持ちで、この束の間の人生を生きよう。(p95~98)
草の庵に 足さしのべて小山田の 山田のかはづ 聞くがたのしさ (良寛)

こういう心の有り様を、現代人は味わうべくもあるまい。じっと蛙の声に耳を傾ける代わりに、たちまちテレビをつけ、らちもない画像にげらげら笑いする。

じっとしている。何もしないでいる。自然の中に心を遊ばせるという良寛がしたことを、現代人はもうできなくなっているのだ。

絶えず映像や音声の氾濫の中にあり、刺激なしにはいきられなくなっている。これでは良寛の、また昔からの古仏達の味わってきた深い心の充実など、もはや求むべくもない。

文明が進歩すれば人間が幸福になる、というのは間違いであった。テレビなんてものができたために、人間は途方もなく浅薄になった。人生を自分一人の力で味わう力がなくなったとでもいうしかあるまい。

だれでも、できれば自分一人の力で生きているということを味わい、深い安心を得たいと願っているのである。無為の充実。充実した単純さ くらい上等なものはないと良寛を通じて人は知る。その点でも良寛は現代人の対極にいる。(p107)
とかく人は、禅僧が悟りを得た。大悟一番したといえばそれっきりで終わりで、悟りの状態は何もしないでも生涯続くかのように思いがちだが、そんな安直なものではないのだ。むしろ、悟りをひらいたあとにこそ本格的な修行が始まる。これは、悟りというものが固定した何かでなく、修行によってのみ保たれる精神の状態であるからにほかならない。(p138)
「徒然草」に
名利に使われて 閑かなる暇なく 一生を苦しむるこそ 愚かなれ(第38段)欲がある限り、人はいくら物や金を持っても充足しないことを、われわれはあの
欲がある限り、人はいくら物や金を持っても充足しないことを、われわれはあの高度成長中の日本・日本人においてさんざんに見た。物の所有には自足するときがなく、つねに他人の所有と比較することになるから、他人が自分よりいい物をもっていればそれ以上の物をと意欲する。互いに競い合い欲の炎を燃やし続けたのがあのころの日本人であった。いい按配にバブルがはじけ、それ以後あの病は一応収まったかに見えるが、欲がある限りはいつでもまた再現するだろう。
その欲を元から断つのである。そうすれば、粗末な食い物でも空きっ腹にはうまく味わわれるし、ボロでも寒さふさぎに役立つ。とにかく欲がないから自由で、天下に自分を拘束するものはない。そこで、気の向くまま山林に入っては鹿と遊んだり、村に出かけては子供らと毬つき歌を高らかに歌う。名利を求める心がないから、何をしても自由なのだ。世間の嫌なことを聞いたら、堯帝から天下を譲ると聞いて耳が汚れたと、許曲が穎水で耳を洗ったという故事さながら、崖の下の清い水で耳を洗う。そして、嶺に鳴る松風の音を聞いて気持ちを清らかにする。(p157)

とある。たとえどれほどの富を得、どれほどの名声を得ようと、そういう外物のために捧げた生ほど愚かしいものはないのは、ちょっと考えれば誰にでもわかることだが、世の人の多くはそっちを選んでしまう。

四畳半くらいに小さな住まい

良寛50代の住まいー五合庵
ここで子供たちと戯れ、時間を過ごした。何もない狭い庵は無限の豊かな空間なのかもしれない。
外人に言わせれば「シンプルライフ」かもしれないが、もっともっと奥が深い。日本人の文化は底知れない。
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無財の七施(むざいのしちせ) [貧しくても心豊かに暮らす法]

無財の七施(むざいのしちせ)
私は特に仏教徒ではないのですが、自分も周りも幸せにすると言われている、「無財の七施」を紹介したいと思います。
佛教の教えは実践して初めて真理を体得できるという。この実践することを行(ぎょう)といいます。難行苦行ではなく日常生活でできるものです。人々が人間形成に励みながら安らぎの境地に至る行の一つが「布施」です。『雑宝蔵経』というお経に書かれています。
一般的には布施というと金品を施す『財施』ですがお金をかけずだれでもできる布施として『無財の七施』があります。私たちが、お金がなくても物がなくても周りの人に喜びを与える方法を説いたものです。
これら身近な奉仕の実践は自分を磨くだけでなく人々の心を和ませることができます。
目次
1 眼施(がんせ)…いつも優しい眼差(まなざし)しで人に接する。
2 和顔悦色施(わがんえつじきせ)…いつも笑顔で接する。
3 言辞施(ごんじせ)…優しい言葉で接する。
4 身施(しんせ)…困った人を見たら助けてあげる。
5 心施(しんせ)…ほかの人のために心を配る。
6 床座施(しょうざせ)…席や場所を譲る。
7 房舎施(ぼうじゃせ)…訪ねてくる人がいれば一宿一飯の施しを行い労をねぎらう。
8 まとめ
1.眼施(がんせ)…いつも優しい眼差(まなざし)しで人に接する。
『目は口ほどに物を言う』と云われるように、言葉を発しなくてもお互いに相手の想いはある程度わかります。また『目は心の窓』とも云われ、心の中は目に表れます。
心の中は、言葉でいくら取り繕(つくろ)ったとしても誤魔化すことは出来ません。相手を思いやる心を持っていれば、自然と優しい眼差しで相手を見つめ、心が伝わります。
突然優しい眼差しを向けようとしても、日ごろから慈悲の心を持つように心がけていなければ、自然に出てきません。優しい眼差しは、相手を和ませお互いに打ち解け、幸せを与える、ことなります。
優しい眼差しを向けることは、日ごろから優しい心を修養する『行』であり『布施』です。
2.和顔悦色施(わがんえつじきせ)・・いつも笑顔で接する。
表情は眼施と同様に、その人の気持ちを表します。たとえ言葉が違う外人でも、表情を見れば一目で喜怒哀楽が伝わります。
『笑う門には福来る』という格言があるように、笑顔は人の心を惹きつけると共に周囲の人をも明るい雰囲気にさせます。
日々楽しいことばかりではありませんが、努めて笑顔で接することによって幸運が自ずと引き寄せられてくるようです。
3.言辞施(ごんじせ)…優しい言葉で接する。
言葉は、人と人とのコミニュケ-ションを円滑に図る上で大切な、人間だけが持つ心の伝達ツ-ルです。感謝の気持ちをもって伝える言葉に誰も悪い印象は受けません。
『ありがとう。』『お世話になります。』『お疲れ様。』…など日本語にはすばらしい言葉がたくさんあります。努めて、感謝の言葉、思いやりの言葉で接することによってお互いに円滑なコミニュケ-ションが出来ます。
また、挨拶は言われてからするのと、自分から進んで言うのとでは印象が大分違ってきます。進んで挨拶をすると気持ちも良く、相手からも好印象を受けます。
優しい言葉を日ごろから使う習慣を身につけていると、心のお布施が蓄えられ、やがて周囲から幸運を運んできてくれることになるでしょう。
4.身施(しんせ)…困った人を見たら助けてあげる。
損得は抜きにして、困った人がいたら自分の体を使って奉仕することを説いた教えです。お年寄りが重い荷物を背負っていたら持ってあげる、というように困っている人がいたら体を使って助けてあげる奉仕です。
どんなに思っていても、それを実行しなければ奉仕にはなりません。『思うだけなら誰でもできる。』まさにその通りです。せっかく良いことを思っていたなら、それを実行することです。
『思う』だけの人と『実行する』人とでは人間の価値として雲泥の違いがあるということです。『思ったら実行する』これは平凡なことのようで実際には、非凡なことなのです。
駅のホ-ムから転落した人を救った人、海でおぼれかかった子供を救出した人…他人のために身を以て奉仕した人たちは周囲の人たちに感動を与えます。
5.心施(しんせ)…ほかの人のために心を配る。
人の心はとてもデリケ-トです。心は隠しようもなく、言葉や態度に表れます。とかく、自分だけ良ければいい、と利己的に考えてしまう心が他人の信頼を失い、和を乱してしまうのは、日常生活の中でもしばしばあることです。
『他人の不幸は我が身の幸せ』という言葉が横行する風潮も、身勝手で自己中心的な人間の一面を風刺した言葉です。他人の喜びも悲しみも、自分のことのようにその人の身になって考えられる人が多ければ、世の中に戦争や犯罪はなくなるかも知れません。
悪いこともしないけれども良いこともしない、という人はたくさんいます。しかし、それだけでは自分を守っているだけに過ぎないということを自覚し、日々、人の身になって考えられるように修養したいものです。
『布施』とはお金や物だけでなく、心を施すという心で生きることの大切さを知れば、自分を高めていくことにもなります。
6.床座施(しょうざせ)…席や場所を譲る。
私たち日本人には素晴らしい伝統があります。
例えば、電車で立っているお年寄りに席を譲る、また東北で起きた大震災の時には、限られた食料を分かち合うなど海外の人に感動を与えました。つまり、譲り合うという心です。
何事も、独り占めにしようとすることから争いが起こります。お互いに、譲り合う心を持って日々生きている限りお互いに感謝の絆で結ばれていきます。
7.房舎施(ぼうじゃせ)…訪ねてくる人がいれば一宿一飯の施しを、行い労をねぎらう。
2020年のオリンピック会場が東京に招致されることが決まったのは。8名のプレゼンタ-の功績が大きかったと云われています。
滝川クリステルさんは、『おもてなし』という日本人の心をアピ-ルし、流行語になりました。まさにこの言葉こそ、来る人への心配りの精神を的確に表現しています。この中には、訪問する人のことを思い、居心地良く滞在していただくことへの気配りが現れています。
気配りや心配りも、人に対する思いやりの心から自然に表れてくるものです。
まとめ
布施とは金品を施すことばかりではなく、優しい心を持って施すのも布施である事に気づかれたのではないでしょうか。
『無財の七施』の教えに共通することは、『人には優しい心を持って接する』ということの『行』であり、『実践』です。人を思いやる心は、言葉で言わなくても行動することで伝わります。
ですから、日頃から『優しい心』をもつ修養を積むことが自分を高め、人を幸せにすることにつながります。
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マザーテレサの言葉(世界を負かすのに爆弾や銃を用いさせないで下さい。) [貧しくても心豊かに暮らす法]

マザー・テレサの言葉(愛と祈り)20220513

 
①こちらでは、マザーテレサによって残された言葉をとおして、その愛と祈りの生涯を見て行くこととします。

この世の最大の不幸は、貧しさや病ではありません。だれからも自分は必要とされていない、
と感じることです。


マザーテレサは、貧しい人々、病んだ人々を生涯にわたって愛し、助け続けました。

彼女のつくった「神の愛の宣教者会」は、「孤児の家」「ハンセン病患者の家」
「死を待つ人の家」「結核患者、精神病者の家」等を運営し、
常に貧しい人々の中のいちばん貧しい人々、病んだ人々、
社会の人々から必要とされていないと感じるような立場におかれた人々を、
今現在も愛し、助け続けています。(1)

②マザーの愛はこの世に生をうけた人すべてにおよびました。それは、
これから生まれてくる子のすべてにもおよびました。どのような環境に、
どのような事情で生まれても、一人一人が大切な命、神にも世の中にも望まれて
生まれてくると確信をもっていました。
あなたは、この世にのぞまれて生まれてきた大切な人
マザーの愛はそのマザー自身の信仰に、基づいていました。
ごうまんで、ぶっきらぼうで、
利己的になるのは、いともたやすいことです。

でも私たちは、
もっとすばらしいことのために、
つくられているのです。
(マザー・テレサ愛のことば より(8)


マザーの活動はインドのコルカタ(カルカッタ)で始まりましたが、やがて世界の多くの国々
へと広がることになったのです。
考える時間を持ちなさい
祈る時間を持ちなさい
笑う時間を持ちなさい

それは力の源
それは地球でもっとも偉大な力
それは魂の音楽

遊ぶ時間を持ちなさい
愛し、愛される時間を持ちなさい
与える時間を持ちなさい
それは永遠につづく若さの秘密
それは神が与えてくれた特権

自分勝手になるには、一日は短すぎる
読書する時間を持ちなさい
親しくなるための時間を持ちなさい
働く時間を持ちなさい

それは知識のわき出る泉
それは幸福へつづく道
それは成功の価値

施しをする時間を持ちなさい
それは天国へと導く鍵

[コルカタ(カルカッタ)の「孤児の家」の壁にある看板より]

子どもたちを見るとき、マザーの顔は優しさと慈しみにみちていました。
すべての子どもたちが、この世に望まれて生まれてくる、とマザーは言っています。
それは一人の例外もなくすべての子どもたちを意味していました。
マザーは、子どもたちは祈ることを学ぶ必要があると語りました。

④すべての宗教は、永遠なるもの、つまりもうひとつの命を信じています。
この地上の人生は終わりではありません。終わりだと信じている人たちは、死を恐れます。
もしも、死は神の家に帰ることだと、正しく説明されれば、死を恐れることなどなくなるのです。
(マザー・テレサ 日々のことば より

マザーは永遠なる命について語っています。死は終わりではない、
正しい信仰を知って生きる人は死を恐れることはないと言っています。
すべての人はやがてこの世の死を迎える事により、神(宗教、宗派を超えた父(創造主))の家
(霊魂の世界)へ帰ると語っています。彼女の信仰は、祈ることによって成し遂げられました。
私の秘密をおしえましょうか。私は祈ります。キリストに祈るということは、
キリストを愛することと同じなのです。
救われるためにどうしたらよいのでしょうと尋ねる人があったら、
私の答えは「神様を愛することです。そして、何よりもまず祈ること」
キリストを知らない人が、真にキリストを知るようになることをマザーは願っていましたが、
それに関連して、彼女はこの世のすべてのキリスト信者にとって大切な言葉を残しています。
キリスト信者と世間に認められていても実際には実行していない人は、
キリストを知らない人がキリストに近づこうとする事をさまたげてしまうと言っています。
生涯を通して実践していたマザーの大切な言葉です。
ガンジーは、キリストのことを知った時、興味をいだきました。しかし、
キリスト信者たちに会って、がっかりしたそうです。
キリストに近づこうとしている人たちにとって、キリスト信者たちが最悪の障害物
になっていることがよくあります。言葉だけきれいなことを言って、
自分は実行していないことがあるからです。人々がキリストを信じようとしない一番の原因はそこにあります。

(マザー・テレサ愛と祈りのことば  より(6)

⑤マザーは真の信仰(祈り)であれば、その人の祈りは、きっと受け入れられると話しました。
信仰が深まれば、いかなる宗教、階層、肌の色、国籍、貧富の差も存在しないとわかります。

 マザー・テレサより
マザーの信仰は、あらゆる宗教、宗派はもちろんあらゆる人種、社会的身分の人々を含むものでした。
すべての人々が必要としているのは、他の人々をもっと愛し始めることと言っています。
神様だけが、私たちの真の必要をご存知です。
愛の欠如こそ、今日の世界における最悪の病です。
(マザー・テレサ愛と祈りのことば  より

どんな小さいことであっても、大いなる愛を込めておこなうことは、人に喜びを与えます。そして人の心に平和をもたらします。
何をするかが問題ではなく、どれほどの愛をそこへ注ぎ込むことができるか、、、 それが重要なのです。
(マザー・テレサの「愛」という仕事  より(7)

⑥コルカタ(カルカッタ)での、ある晩のことです。マザーたちは路上で病人を見つけました。
 その中の一人の女性が特に重症だったのですが、彼女の体は、虫や蛆に覆われていたのです。
私は愛情のすべてを注ぎ、できる限りの世話をしました。
そしてベッドに寝かせてあげた時、彼女は私の手を取り、美しく微笑んだのです。
こんなに美しい笑顔を、私はそれまでに見たことがありませんでした。
「ありがとうございました」

彼女はそうひとこと言って、静かに息を引き取ったのです。
そんな彼女の死を目の当たりにして、私は自分に問いかけてみました。
「私が彼女だったら、どうだろう?」
私は正直に答えを出してみました。

「人の気をひこうとして、『痛い』とか『お腹が空いた』とか『死にそうだ』
とか言ってしまうかもしれない、、、』
彼女は私に愛をくれました。彼女は、私が彼女にしてあげた何倍ものものを、与えてくれたのです。
私たちのところにいるのは、こういう人々なのです。
この貧しくも美しい人々は、何も私の所にだけいるのではありません。誰の側にも必ずいるはずです。

孤独な人はどこにでもいます。あなたはそのことに気づいているでしょうか?
(マザー・テレサの「愛」という仕事  より

マザーは真実な人でした。その信仰に基づき、貧しい人々の中のいちばん貧しい人々を
愛し続けた生涯でした。
彼女の大きな仕事の一つであった[死を待つ人の家]は、人間のこの世の人生の、
最後(死)の瞬間を、尊厳を持って迎えてほしい(迎えるべきである)、
という彼女の真の愛(信仰)によって始められ、今も後継者たちにより実践されているのです。
それは、現代(科学万能)社会において、すべての人々にとって失われつつある大切なもの
(死の尊厳、真の愛《信仰》)を、示しています。

彼女には多くの寄付(お金や物)や賞金(ノーベル賞・1979年
《自分が受けるのではなく、彼女の言う、貧しく美しい人々が受け取るのなら、
と受賞したのです》等)が入りましたが、それらのすべてを、彼女の愛する貧しい人々
のために使っていました。
彼女は、生涯を通じて、日常的に自分自身のものと呼べるものは、聖書等の他には、
洗濯用の一つのバケツと数枚の身に着けるサリーと素足にはくサンダル等以外
何一つ持っていなかったのです。貧しい人たちの中で、同じように貧しく生き抜いた人でした。
(彼女に従ったシスターやブラザーたちも、同様に、家族も財産も地位も名誉も、
すべてを捨てて、無一物でその生涯を捧げているのです。)(10)

⑦幸せについて
今、この瞬間幸せでいましょう。

それで十分です。
その瞬間、瞬間が、私たちの求めているものすべてであって、他には何もいらないのです。
今、幸せであるようにつとめましょう。
他の人をーあなたより貧しい人々も含めてー愛しているのだということを、
行動によって示すことで、彼らを幸せにすることができるのです。
たくさんのものが必要なわけではありません。
ただ、微笑みかけてあげるだけでいいのです。

だれもが微笑むようになれば、世界はもっと素晴らしい場所になるでしょう。
ですから、笑って、元気を出して、喜びなさい。
神はあなたを愛しているのですから。

マザー・テレサ語る より

インドのコルカタ(カルカッタ)において、マザーは、
無一物の一人の人間としてその行動を起こしました。彼女は、聖なる者として生きることに、
その全生涯を捧げたのです。

その時の彼女の立場(社会的、組織的、環境的)によるありとあらゆる困難を
一つ一つ克服して行きました。それを支えたのは彼女の真の信仰(真の愛)でした。

(12)
⑧死について
マザーは、人間の死について次のように語っています。死はこの世から自分の家に帰る事
と言っています。この言葉はマザーが人間のいのち(霊魂)について、はっきりとその行方を知っていた事を示しています。
死は自分の家に帰ることですが、人は、何が起こるかを恐れて死にたくないものです。
そこには良心の問題もあります。

”もっとよくやるべきだったのに”と。
私たちは生きたように死ぬものです。

死とは人生の続きであり、
また、人生を完成させるだけでなく、体をお返しするに過ぎないのです。
しかし、心と魂はずっと永遠に生き続けます。
死なないのです。
(マザー・テレサ 日々のことば より

ここには、マザーの信仰にもとづいた真理が示されています。体(肉体)を返しても心と魂(霊魂)は永遠に生き続けると言っています。そのまま本人(霊魂)は人生の続きを生き続けると言っているのです。もちろんマザー自身は、その真理は宗教や宗派の違いによって左右されるようなものでは無い事をも知っていたのです。

(15)
⑨微笑
マザーは、ウィトとユーモアに富んだ明るい人でした。そして、彼女とともに働く
シスターたちに、常に微笑みを忘れないように、と話しました。
笑うことなど出来ないような、悲惨な状況であればあるほど、微笑みが必要であると言いました。
それが実践出来ているのは、彼女たちに信仰による喜びの心と真の愛が、
常にともなっているからなのです。

マザー自身でさえも、仲間のシスターに対して微笑みを向けることが難しい時があることを、
認めていました。マザーも人間として様々な感情があっても、何の不思議もありません。
そんな時には、マザーは「そのような時、わたしは祈ります」と言っていました。
(18)

⑩世界を負かすのに爆弾や銃を用いさせないで下さい。

マザーは、人々の幸せと平和を願う人でした。
世界を負かすのに爆弾や銃を用いさせないで下さい。
愛と共感を用いさせて下さい。
平和は微笑みから始まります。
あなたが微笑みたくない人にも1日5回微笑みましょう。
神の光をともして、世の中で、またすべての人々の心の中で、あらゆる憎しみや権力愛を消しましょう。
マザーの言葉に、
貧しい人々はすばらしい(美しい)、という表現があります。
彼女は、富める人々には無いもの(真の自由と幸福)を貧しくも精いっぱい生きる人々の中に
見ていたのです。
日本語には、『少欲知足』という簡潔ですばらしい言葉があります。
また一方では洋の東西を問わず、
『人は持てば持つほど欲しがるもの』というような言葉もあります。
貧しい人の中で最も貧しい者は自由で、幸福です。
この人々にとって、多くのことを常に欲し、望む人々のことは何でもありません。
第三世界の貧しい人は、私たちに、満ち足りるということが、どういうことかを教えてくれます。

これは西欧の人々が忘れているものです。

 (マザー・テレサ インドから世界へ より
(24)
⑪許すということ
大切なのは、
どれだけたくさんのことをしたかではなく、
どれだけ心をこめたかです。
人を責めるのは簡単にできます。人を恨むことも、憎むことも簡単にできます。そして、
怒ることも、許さないことも、感情的に人を裁くことも簡単にできます。
しかし、人を許すことは簡単にはできません。特に自分に対して、
また自分の仲間(家族、友人、仲間等)に対して罪(害)をなした人を許すことはとても困難です。
一面においては、人は、気づいているか気づいていないかに関わらず、
何らかの罪(害)を犯さずに生き続けることはできません。
自分が当然の事として行っていることが、人を傷つけているかもしれません。
時には良かれと思うことさえも、人を傷つけているかもしれないのです。

人には、自分が許されなければならない事もあるのです。
困難ではあっても、お互いに許しあわなければ、平和に暮らす事はできません。
マザーは、真に人を愛するためには、人を許すことが必要であると語りました。
人を許すことは、非常に困難で簡単には出来ないことです。彼女は、真に人を愛するためには、
許すことを知らなければならないと言っています。
もしほんとうに愛したいと願うなら、
許すことをしらなければなりません。

マザー・テレサ愛のことば より
(28)
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坂村真民の詩(心の薬箱)① ----元気や希望を無くしたら読んでください。 [貧しくても心豊かに暮らす法]

坂村真民の詩(心の薬箱) ----元気や希望を無くしたら読んでください。
130109-詩集「念ずればはなひらく」より

私の家の前に住む人が、坂村真民の大ファンで最近本を私にくれました。
何か心に残る詩がたくさんあるが、その一部を紹介しておきます。
元気や希望を無くしてイヤになっちゃたときに元気になる薬箱みたいなものです。


あるひとに

生まれてこなければよかったと
思われることもありましょうが
どうか思いなおして
人間として生まれたことを感謝し
なんでもいいから
自分でできることをして
生きてください
十七文字の俳句を
作るのもいいです
いっしょうけんめい考えたら
神からの授かりものが
何かあるはずです
信仰と希望と愛
そんなことを
じっと考えてください
光が射してきます
力が生まれてきます
暗かったこころのカーテンを
明るいカーテンにして
あなたの心に
灯りをともしてください




あの時のこと

あの時のことを
お互い忘れまい
ふたりが
固く誓いあった時のことを
ふかく喜びあった時のことを

思いあがった時は
いつも思い出そう
初めて母となった
あの嬉し涙を
お互い
古くなってゆく袋に
新しいものを入れなおそう

おのれを失った時は
いつも語り合おう
慰めあい
苦しみあい
二人で過ごしてきた
数々の日のことを

日本人の幸福力の極意「金や出世ならぬ人生に一心な江戸っ子の贅沢」(江戸っ子のたしなみ)藤原千恵子を読んで [貧しくても心豊かに暮らす法]

日本人の幸福力の極意「金や出世ならぬ人生に一心な江戸っ子の贅沢」(江戸っ子のたしなみ)藤原千恵子を読んで

低成長経済(マイナス成長)で閉塞感の強い今の社会及び、もっと厳しくなるであろう未来社会において、成長しなくても心安らかに楽しく暮らす知恵があれば、人生としては豊かである形をいろいろ探しているが、江戸時代のモデルは、仏教におけるお釈迦様の知恵とともに、その解決案のひとつかもしれない。

ここでは、日本人の幸福力の極意「金や出世ならぬ人生に一心な江戸っ子の贅沢」(江戸っ子のたしなみ)という藤原千恵子さんの論文を紹介しながらいろいろ考えて行きたい。

江戸っ子の幸福力
江戸時代の絵の中に
天気がよし
夢でもよし
いつでもよし
なんでもかでもずっとよしよし
という記述がある。
17世紀から270年間平和を維持した江戸時代は世界的にも奇跡に近いといわれている。
その奇跡の平和を支えたのは、競争までして出世したくない、戦ってまでモノを持ちたくない、
なんでもよしよしの江戸庶民で、自然のままにあることを核にした江戸文化の象徴であった。
長い平和の中で江戸っ子はゆっくり幸福力を熟成して行った。

お天とう様しかみない、何事も腹八分目気張らないがんばらない生き方は軽さが身上、住所はころころ変わり、名前も変わる。
人生どう生きるかなんて事は悩まない。

悩むのは今日一日をどうやって大事に楽しく生きるかっていうことで、彼らは、頭で考えてではなく心で生きていた。

そうした江戸時代の軽やかな生き方を切り捨てて西洋文明社会を目指して邁進して果てに得たものは何だったでしょうか。
確かにモノは豊かになったかもしれないが、家庭は壊れ、希薄な人間関係、競争に疲れ果ててうつになった人々、決して心豊かになったとはいえないのが現状であろう。
文明の進歩の割には幸福には見えない。
江戸時代日本を訪れた外国人は江戸庶民はみんな礼儀正しく、楽しそうに見えたと語っている。

競争する代わりに知らない人でもにこやかに挨拶し、外部に対する用心より自省し、片寄せあって親和と安息の暮らしをしていた。

彼らはある意味で人生の達人であった。人生を丸ごと肯定し「なんでもよしよし」は何でもいいとは違っていた。
「三度のたく米さえこわし軟らかしおもふままにはならぬ世の中」

現代人はむやみにがんばるが、江戸っ子はがんばらなかった。
彼らは偉くても忙しい人はお気のどくさまと見ていた。
どうかして出世するような災難にゃあいたくないと金にならぬことを一心にやった江戸庶民の贅沢な幸福力はすごい。

所詮、人間の至福への道は江戸も現代も同じだ。
人間すべて出来事は因縁としてよき縁として受け入れ自然のままに生きれれば、鬱になることもなかろう。
無理して生きているからくたくたに疲れて、鬱にもなるのだ。
もっと、こだわりを捨てて自然のままに生きるようにしたいものです。

つづく

「けちのすすめ」仏教が教える少欲知足(ひろさちや)を読んで [貧しくても心豊かに暮らす法]

「けちのすすめ」仏教が教える少欲知足(ひろさちや)を読んで朝日新聞出版

このブログ(ミャンマー紀行)のなかでも仏教が貧しくても心豊かに暮らせるための有効な手段になるのではないかと、記載したが、たまたま「けちのすすめ」仏教が教える少欲知足(ひろさちや)を読んで、私が明確には認識できていなかった事柄をわかりやすく、書かれているのに驚いたのと、内容に共感するところが多かったので、内容の要旨にコメントをつけながら紹介したいと思います。

「まえがき」より
資本主義経済はゴム風船のようなもので、経済発展の上に成り立っているので、どんどん経済成長しなければならない。経済成長がストップするとその社会はしぼんで壊れてしまう。
ゴム風船は膨らませ続けると、いつかはパンクする。
地球の資源も無限ではなく、エネルギー資源も枯渇し、環境も破壊されます。

日本とアメリカの資本主義経済というゴム風船はもう破裂してしまったのです。 もう、再び膨らませることはできない。 高度経済成長をもう一度という政治家のたわごとは実現しないのです。

経済が破綻すれば仕事が減って、失業者が増えるでしょうが、
たとえ仕事が半分になっても、給与を半分にしてこれまでの人数で働く
勤務時間が半分になってみんな早く家に帰って、一家団欒を楽しめるのです。

給与が半分になれば贅沢はできなくなります。
パチンコはやめればいいし、マイカーもやめて、バスや歩けば健康にもなるし、都会の空気もきれいになる。

タバコはすわなければ健康にもなる。ゴルフなんかやめればいい。
お酒は飲み屋でなくみんな家で飲めば安いし、カミサンも安心する。

終戦直後の日本はそんなものだったけど、みんなの顔は明るかった。
「狭いながらも楽しい我が家」と歌にも歌われていた。

政治家を当てにしないで、私たちの生き方を考えていきましょう。 ここ50年日本人は物質的な豊かさを目指してあくせく働き、過労死したり、うつになったり、いらいらしながら、がつがつと生きてきました。 もうみんなくたくたになっています。 けちをモットーにすると心の平安が得られます。 ゆったりとのんびりと生きていきましょう。

内容はこれからですが、次回に続きます。


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