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資本主義の次に来る世界(LESS IS MORE)「少ない方が豊か」 [未来予測]

資本主義の次に来る世界(LESS IS MORE)「少ない方が豊か」
ポスト資本主義の倫理、すべての存在とともにあること

資本主義の次に来る世界がどんな世界なのか、本当に知りたい。一言で言えば、「経済的成長を求めず、生態系と一体になって暮らす」世界ということになろうか。しかし、私たちは資本主義しか知らないし(p.32)、GDPがマイナスだと不安になる。その昔、「経済成長はすべての社会問題を解決する」と先輩が言っていたことを思い出すが、どうやらこれは間違いのようだ。本書は、経済や科学技術の未来予測ではなく、人類の未来はどうあるべきかを説いている。

1.資本主義はいつ始まったのか
 資本主義がこの人類の危機をもたらしたと主張するからには、資本主義とはどのようなもので、いつ始まったのかを明らかにしなければならない。本書の第1章は、明確にそれらを説明している。
 資本主義が誕生したのはわずか500年前のことである(p.47)。16世紀~18世紀にイギリスをはじめとするヨーロッパで行われた「囲い込み」(p.53)、1492年のコロンブスによる新大陸の発見より続く「植民地化」(p.57)が、資本主義の基盤となった(p.60)。囲い込みで土地を奪われた人々は、都市に流れ込み安価な労働力を提供した。植民地化は植民地の生態系に大規模なダメージを与えたばかりでなく、ヨーロッパへの原料の供給源に、そしてヨーロッパからの商品の大量消費市場になることを強いた。

〔1350年~1500年:ヨーロッパ労働者階級の黄金時代〕
 1347年に黒死病(ペスト)が流行し、ヨーロッパ人口の3分の1を死に追いやった。これによって労働力が不足し、一方、土地は豊富にあったので、小作農と労働者が交渉力を持つようになった。彼らは反乱を起こし、最終的には鎮圧されたものの、ヨーロッパの大部分で農奴制の廃止につながった。後の歴史家は、この1350年から1500年を「ヨーロッパ労働者階級の黄金時代」と呼んだ(p.48-51)。なお、この部分の原注に『資本論』が引用されているのだが、歴史家にマルクスが含まれるということなのか。
 黄金時代を過ぎ、産業革命の時代になると平均寿命が著しく低下し、イギリスのマンチェスターではなんと25歳になったそうだ(p.56)。

2.生態系はどれだけ危機的状況にあるのか
 生態系の危機は、資本主義がもたらした必然的な結果である(p.47)。どれだけ危機的な状況にあるのか、2章で詳細に語られる。
 この危機は「生産高を上げて賃金や社会サービスを向上させることを目指すのではなく、成長そのものを追求せよ」という新しいルールによってもたらされた(p.104)。つまり、使用価値ではなく、交換価値が優先されるのである。

〔成長の限界〕
 1972年に出版されたローマクラブの『成長の限界』は画期的な報告書であった。環境保護関連の書籍としては類を見ないベストセラーとなった(p.126)。しかし『成長の限界』の限界は、資源の有限性だけに言及した点にある。本書で問題にする生態系の問題は新たな資源の代替では取り戻せないのだ。

〔マテリアル・フットプリント〕
 本書は資本主義の危機を訴えるのに、地球の温暖化、つまり二酸化炭素の排出量だけを問題にするのではなく、世界のマテリアル・フットプリント(消費された天然資源:Material footprint)を問題としている(p.108 図)。なぜならマテリアル・フットプリントは世界のGDPとぴったりと相関し(p.110 図)、化石燃料の消費だけでなく、その背後にある経済活動も反映させることができるからだ。マテリアル・フットプリントの閾値は500億トンが妥当とされている(原注p.11)。2000年には既に閾値の500億トンに達している(p.107)。
 『成長の限界』当時、「成長に限界はない」と言ったレーガン元大統領の言葉は(p.127)、間違いであるばかりでなく、実に危険な言葉なのである。

3.科学技術はその危機を救うことができるのか
 科学技術そのものを否定はしないが、仮に100%クリーンなエネルギーを得て、化石燃料を使わなかったとしても、森林を破壊したり、工業型農業を拡大したり、廃棄物を増やしたり、限界を超える影響を生態系に与えるに違いない(p.154)。

〔ジェヴォンズのパラドクス〕
 石炭の効率的な利用が可能となれば、無駄がなくなって石炭の使用量が減ると期待されるが、実際にはそうならない。効率が上がることで石炭の価格が下がり、かえって石炭の使用が増えるのである。1865年、ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズは既にこの現象に気付いていた。これは「ジェヴォンズのパラドクス」と呼ばれている。資源の効率的な使用は必ずしも資源の使用を抑えることにつながらないのだ(p.159)。

〔グリーン成長〕
 グリーン成長とは、OECDの報告書において、「経済的な成長を実現しながら私たちの暮らしを支えている自然資源と自然環境の恵みを受け続けることであると考えられています」と、環境省『平成24年版 図で見る環境・循環型社会・生物多様性白書』で説明されている。これは、経済成長が幸福な生活をもたらすという自動思考を免れていない。
 本書ばかりでなく私の知る限り、ハーマン・デイリー (2014)『「定常経済」は可能だ!』(岩波ブックレット)、竹内恒夫 (2016)『地域環境戦略としての充足型社会システムへの転換』
(清水弘文堂書房)、セルジュ・ラトゥーシュ (2019)『脱成長』(文庫クセジュ)なども、グリーン成長を否定する。

〔ティッピングポイント〕
 一番怖いのは、カーボンバジェット(炭素予算;温室効果ガス累積排出量の上限)を超過するとティッピングポイント(tipping point 転換点)に達し、気候が制御不能になることである(p.140)。既に一部の指標ではティッピングポイントを超えているという話もある。

4.本当に成長は必要なのか
 福利向上には高レベルのGDPは必要ないことが示される(4章)。GDPではなく、健康で長生きなどの福利指標でみれば、所得とは無関係であることが示されている(p.179)。また、幸福や充実感の指標でみれば、GDPとの関係は希薄である。このことを最初に指摘した経済学者の名にちなんで、「イースタリンのパラドクス」と呼ばれている(p.185)。
 コスタリカの例は驚くべきものである(p.181)。コスタリカは1980年代に平均寿命を延ばし、アメリカを追い越してしまった。その時の国民ひとり当たりのGDPはアメリカの7分の1であったばかりか、まったく成長しなかったのだ。
 GDPの成長がなくても、豊かになることはできるし、公平さは成長の代わりに豊かさを享受させてくれる。さらに、イノベーションのために成長は必要ないのだ。

5.対策
 生態系の問題の周辺に貧困やグローバルサウスの問題がある。著者は「人間の福利を選ぶか、それとも生態系の安定を選ぶか」という問題を設定し、生態系を選ぶと答える(p.202)。生態系を選ぶとは成長を止めるということである。しかし、グローバルサウスにおいてはいまだ成長は必要である。ここでの対策とは、グローバルノース(富裕国)の成長を止めるためのものになる。

〔5つの緊急政策〕
 グローバルノースの成長を止めるためのアイデア(ステップ)がなかなか面白い。それに結構実現可能性もあるように思える(p.211-23)。
・計画的陳腐化を終わらせる
・広告を減らす
・所有権から使用権へ移行する
・食品廃棄を終わらせる
・生態系を破壊する産業を縮小する

〔ポスト資本主義は民主主義から始まる〕
 さらに付け加えれば、川や山といった自然に法人格を与えるという方法も面白い。これはアイデアだけでなく、実際に行われていることでもある(p.287-9)。日本はほんの少し前まで、そういった世界だったのだ。
 不平等を減らし、公共財を拡大する。より高い賃金と短い労働時間という形で、生産性の向上がもたらした利益を労働者に還元できるはずだ(p.234)。
 債務の帳消しも検討される。古代オリエント社会では、借金は7年ごとに帳消しにされていたそうだ(p.239)。銀行は実際に保有する資金の約10倍の資金を貸し出しているが、「公共貨幣システム」というアイデアでは、保有する資金だけ、つまり銀行は100%の準備金を用意しなければならないとするのである(p.243)。
 ハウザーらの実験は興味深い。世代を超えて管理する共有資源を被験者に割り当てたが、68%の者は再生可能な量しか取らなかった。残りの32%は目先の利益のために共有資源を存分に使うという選択をした。さらに彼らをグループに分け、集団で決定するように求めると、100%次世代のために資源を残した。何度実験しても結果は変わることがなかった(p.247)。
 実験ではこのような理想的な結果になるのに、現実の資源利用ではこうならないのはなぜなのだろう。それは、わたしたちの「民主主義」が少しも民主的ではないからだ(p.248)。ポスト資本主義への旅は、この民主主義的行動から始まるのである(p.251)。

6.すべての存在のなかに生きる
 人類の危機に直面して、人々の倫理が崩れてしまうことが心配される。その倫理を支えるのが資本主義でないのは確かだが、本書はアニミズムを提示し、資本主義の先の倫理にしようとしている。なぜならアニミズムは徹底的にエコロジカルであるからだ(p.266)。
 人類学に登場する先住民はアニミズムの思想を持っている。さらに科学者は、人間、樹木、菌類、細菌、ウィルスと相互依存関係にあることを明らかにしてきた。つまり人間は徹底的にエコロジカルなのだ。
 ここまでは問題ない。しかし、17世紀オランダの哲学者スピノザを登場させる理由があるのだろうか。本書は、デカルトの二元論が結果的に資本主義を擁護し、その資本主義が生態系を破壊することで人類を危機に追いやっていると主張している。デカルトの二元論とは、精神と物質は基本的に二分されるとするものである。精神は神とつながりを持つが、物質は持たない。人間以外の自然は物質なのだ。自然をモノとみなすことができれば、それをどのように扱ってもいいはずだ。そして生態系は人によって破壊されることになったと言うのである(p.76-7)。
 デカルトが二元論なら、スピノザは一元論である。すべてのものは神の一部であり、神の顕現であるとする思想である。一般にこれは汎神論と呼ばれるが、スピノザの哲学をアニミズムと呼ぶには抵抗がある。そもそも、デカルトとスピノザを持ち出さなくても、アニミズムだけで論旨は通るはずだ。アニミズムは生態系とよく似合うし、セルジュ・ラトゥーシュもアニミズムに言及している。
 以上の不満はあるものの、資本主義を批判するばかりでなく、次の世界に導くアイデアが提示されており、読むに値する良書である。
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