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江戸時代の庶民は幸福だった(貧しくとも、思いやりと助け合いの中で人々は幸福に暮らしていた。) [豊かさとは、幸福とはなにか]

江戸時代の庶民は幸福だった
(貧しくとも、思いやりと助け合いの中で人々は幸福に暮らしていた。)
 (国際派日本人養成講座より)120328


東日本大震災で日本人の規律や行動が世界的に評価された。
私は日本人のDNAの中に日本人的行動規律は仕組まれているように考えている。
伊勢雅臣さんの記述を引用して、江戸庶民の生活規律の中に驚くべきルーツが見られる。
ハリスをはじめ当時日本をおとづれた外国人は口をそろえて驚嘆している。
ぼろを着て、貧しい食事をしていても、彼らは清潔で礼儀正しく振る舞い親切で幸福そうであった。
これから日本は特に経済の低迷で苦しい時代が始まり長く続くであろうが、江戸のライフスタイルと、幸福感をみれば。何が起きても日本人は幸せに生きていけると確信できる。



1.「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである」

 黒船によって武力でむりやり日本を開国させたアメリカが、初代駐日公使として送り込んだのが、タウンゼント・ハリスだった。ハリスは安政4(1857)年11月、初めての江戸入りをすべく、下田の領事館を立った。東海道を上って神奈川宿を過ぎると、見物人が増えてきた。その日の日記に、彼はこう書いている。

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 彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。----これが恐らく人民の本当の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。

 私は質素と正直の黄金時代を、いずれの国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。
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 ハリス江戸入りの当日、品川から宿所である九段阪下の蕃書調所までの間に、本人の推定では18万5千人もの見物人が集まったという。その日もこう書いている。

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 人々はいずれも、さっぱりしたよい身なりをし、栄養も良さそうだった。実際、私は日本に来てから、汚い貧乏人をまだ一度も見ていない。
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2.「だれもかれも心浮き浮きとうれしそうだ」
幕末から明治にかけて、日本を訪れた外国人がほとんど異口同音に語っているのは、日本人がいかにも幸福そうであったという点である。

 明治17(1884)年頃からしばしば来日した米国の女性旅行家イライザ・シッドモアは、鎌倉の浜辺でのこんな光景を描写している。ハリスも下田から江戸に上る道中で、似たような光景を見たのではないか。

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 日の輝く春の朝、大人は男も女も、子供らまで加わって海藻を採集し、砂浜に広げて干す。

・・・漁師のむすめたちが脛(はぎ)を丸出しにして浜辺を歩き回る。藍色の木綿の布きれをあねさんかぶりにし、背中に籠(かご)をしょっている。子供らは泡立つ白波に立ち向かったりして戯れ、幼児は砂の上で楽しそうにころげ回る。

・・・婦人たちは海草の山を選別したり、ぬれねずみになったご亭主に時々、ご馳走を差し入れる。あたたかいお茶とご飯。そしておかずは細かにむしった魚である。こうした光景すべてが陽気で美しい。だれもかれも心浮き浮きとうれしそうだ。
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 熱いお茶とご飯とむしった魚が「ごちそう」というから、決して物質的に豊かではないが、「だれもかれも心浮き浮きとうれしそう」に生活できる社会だったのだ。

3.欧米の貧民たちの暮らしぶりと比べて
 日本を訪れた西洋人たちが、日本人の幸福な生活ぶりに驚いているのは、当時の欧米社会と比較してのことであろう。たとえば、フリードリッヒ・エンゲルスは19世紀中葉のイギリスの貧民街の有様を次のように描写している。

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 貧民にはしめっぽい住宅が、すなわち床から水のはいあがってくる地下室か、天井から雨の漏ってくる屋根裏部屋が与えられる。
・・・貧民には粗悪で、ぼろぼろになった、あるいはなりかけの衣服と、粗悪で混ぜものをした、消化のわるい食料品が与えられる。
・・・貧民は野獣のようにかりたてられ、休息も、安らかな人生の享楽も許されない。
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 工場主は子供をまれには5歳から、しばしば6歳から、かなり頻繁となるのは7歳から、たいていは8歳ないし9歳から、使い始めること、また毎日の労働時間はしばしば14時間ないし16時間(食事のための休み時間を除く)に及んでいること、また工場主は、監督が子供をなぐったり虐待したりするのを許していたどころか、しばしば自分でも実際に手をくだしていたことが語られている。[1,p133]
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 当時、来日した欧米人はみな母国におけるこのような悲惨な下層階級の生活ぶりを知っていたはずだ。それに比べれば、海岸で大人も子供を一緒に海藻集めにいそしんでいる日本の庶民の光景は、いかにも幸せそうに見えたはずである。

4.貧しくとも幸福に暮らしている人々
明治10年代に東京大学のお雇い教授を務めたアメリカの動物学者・エドワード・モースは、日本とアメリカの貧困層を比べて、次のように書いている。

「実際に、日本の貧困層というのは、アメリカの貧困層が有するあの救いようのない野卑な風俗習慣を持たない」。日本にも雨露を凌ぐだけという家々が立ち並んでいるが、しかし「そのような小屋まがいの家に居住している人々はねっから貧乏らしいのだが、活気もあって結構楽しく暮らしているみたいである」。

 欧米では、貧乏人はスラム街に押し込められ、悲惨と絶望の中で生きていくしかないが、日本では貧しくとも幸福に暮らしている人々がいる、というのが、彼らの驚きであった。どうしてそんな事が可能になるのか?

 英国公使ヒュー・フレーザーの妻メアリは明治23(1890)年の鎌倉の海岸で見た光景をこう描写している。

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 美しい眺めです。----青色の綿布をよじって腰にまきつけた褐色の男たちが海中に立ち、銀色の魚がいっぱい踊る網を延ばしている。その後ろに夕日の海が、前には暮れなずむビロードの砂浜があるのです。

 さてこれからが、子供たちの収穫の時です。そして子供ばかりでなく、漁に出る男のいないあわれな後家も、息子をなくした老人たちも、漁師のまわりに集まり、彼らがくれるものを入れる小さな鉢や籠をさし出すのです。そして、食用にふさわしくとも市場に出すほどの良くない魚はすべて、この人たちの手に渡るのです。

・・・物乞いの人にたいしてけっしてひどい言葉が言われないことは、見ていて良いものです。そしてその物乞いたちも、砂浜の灰色の雑草のごとく貧しいとはいえ、絶望や汚穢(おわい)や不幸の様相はないのです。
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「あわれな後家」も「息子をなくした老人たち」も、このように思いやりのある共同体の中でしっかり守られて、その平等な一員として生きて行けた。この思いやりと助け合いこそが、貧しくとも幸せに暮らせた理由であろう。

5.「自分たちが彼の分まで頑張るから」
海辺に住む漁師たちは海の恵みを共有しているから、こういう分かち合いも可能になるのだが、町中に住む人々の暮らしはどうか。

 明治11(1878)年に、東北地方から北海道、その後関西地方を日本人通訳一人を連れて旅したイギリスの女性旅行家イザベラ・バードは、奈良県の三輪で、3人の車夫から自分たちを伊勢の旅に雇って欲しいと頼まれた。

 推薦状も持っていないし、人柄もわからないので断ると、一番年長の男が「私たちもお伊勢参りがしたいのです」と訴えた。この言葉にほだされて、体の弱そうな一人をのぞいて雇おうと言うと、この男は家族が多い上に貧乏だ、自分たちが彼の分まで頑張るからと懇請されて、とうとう3人とも雇うことになった。

「人力車夫が私に対してもおたがいに対しても、親切で礼儀正しいのは、私にとっても不断のよろこびの泉だった」と彼女は書きとどめている。
 町中でも思いやりと助け合いが弱者を護っていたのである。これなら物質的には貧しくとも、欧米のスラムにあるような孤独、絶望という不幸とは無縁で暮らせただろう。

6.「口論しあっている日本人の姿を見かけたことがなかった」
このような社会では、喧嘩や口論もほとんどない。維新前後に2度、日本を訪問した英国人W・G・ディクソンは、こう述べている。

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 私は日本旅行のすべてにおいて、二人の男が本当に腹を立てたり、大声で言い争ったりしたのを見たおぼえがない。また、中国では毎日おめにかかる名物、つまり二人の女が口論したり、たがいにいかがわしい言葉を投げつけあったりしているのも一度も見たことがない。
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 明治7(1874)年から翌年にかけて、東京外国語学校でロシア語を教えたレフ・イリイッチ・メーチニコフもまったく同様の体験を記している。_________
 この国では、どんなに貧しく疲れきった人足でも、礼儀作法のきまりからはずれることがけっしてない。・・・わたしは江戸のもっとも人口の密集した庶民的街区に2年間住んでいたにもかかわらず、口論しあっている日本人の姿をついぞ見かけたことがなかった。

 ましてや喧嘩などこの地ではほとんど見かけぬ現象である。なんと日本語には罵りことばさえないのである。馬鹿と畜生ということばが、日本人が相手に浴びせかける侮辱の極限なのだ。
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 口論や喧嘩は、利害の対立から生ずる。思いやりと助け合いに満ちた共同体では、各自が自己主張を自制するので、利害の対立は少なく、その結果、人々は互いに争うこともほとんどないのであろう。

7.「われわれはみな同じ人間だと信ずる心」
思いやりと助け合いの根底をなすのは、人々の平等感であろう。明治6(1873)年に来日して、東京帝国大学の外国人教師となったバジル・ホール・チェンバレンは「この国のあらゆる社会階級は社会的には比較的平等である」と指摘している。
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 金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。・・・ほんものの平等精神、われわれはみな同じ人間だと心から信ずる心が、社会の隅々まで浸透しているのである。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄冒頭に紹介した初代駐日公使タウンゼント・ハリスは、江戸での将軍家定との謁見については、こう書いている。
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 大君の衣服は絹布でできており、それに少々の金刺繍がほどこしてあった。だがそれは、想像されるような王者らしい豪華さからはまったく遠いものであった。燦然(さんぜん)たる宝石も、精巧な黄金の装飾も、柄にダイヤモンドをちりばめた刀もなかった。私の服装の方が彼のものよりもはるかに高価だったといっても過言ではない。・・・

 殿中のどこにも鍍金(めっき)の装飾を見なかった。木の柱はすべて白木のままであった。火鉢と、私のために特に用意された椅子とテーブルのほかには、どの部屋にも調度の類が見あたらなかった。
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 日本の最高権力者である将軍は、米国の一公使よりも質素な服装をしており、逆に一般民衆には欧米社会のような貧民はいない。将軍から町民まで、「同じ人間だ」という意識が浸透していたのである。

8.幸福な共同体のありようを継承、再生する責務
このような幸福な共同体は、過ぎ去った過去の幻影として、現代の日本では完全に失われてしまったものだろうか? 実は、現代の日本を訪れた外国人も、幕末・明治に日本を訪れた外国人と同様の体験を語っている。

 たとえば中国から来て日本滞在20年、今では帰化して大学で中国語を教えている姚南(ようなん)さんはこう語っている。
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 これは民族性の違いだと思いますが、日本では一歩譲ることによって様々な衝突を避けることができます。例えば自転車同士がぶつかったときなど、中国ならすぐ相手の責任を求めますが、日本ではどちらが悪いという事実関係より、まず、お互いに「すみません」と謝ります。その光景は見ていてとても勉強になります。

 ある日、混んだ電車に乗っていたときのことです。立っていた私は、揺られた拍子に後ろに立っていた女性の尖った靴先を、自分のヒールで踏んでしまったのです。すぐ「ごめんなさい」と謝ると、その人は微笑んで「靴先は空いているから大丈夫ですよ」と言ってくれました。
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 こうした日本人の特性を姚南さんは「民族性」と呼んだ。思いやりと助け合いという「民族性」は、薄れつつも、いまだ現代日本に根強く残っている。

 しかし、こうした社会の徳性は、自然に生じたり、勝手に続くものではない。家庭の中で親が子をしつけ、共同体の中での大人の振る舞いが青少年を無言のうちに教え諭す。そうした一つ一つの行為の所産なのである。

 とすれば、我々の先人が築き上げた幸福な共同体のありようを、しっかり継承し、現代にマッチした形で「大いなる和の国」を再生するのは、我々、現代の日本国民の責務であると言える。



a. JOG(452) 幸福なる共同体を創る知恵http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h18/jog452.html
 幕末から明治初期に来日した欧米人たちが見た日本人の幸せな生活。

b. JOG(484) 美しい国だった日本
「方々の国で出会った旅行者は、みな感激 した面持ちで日本について語ってくれた」http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h19/jog484.html

c. JOG(602) 外国人の見た「大いなる和の国」
「私たちは日本にくると、全体が一つの大きな家族のような場所に来たと感じるの」http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h21/jog602.html

50年後の日本(総人口4000万人減)(生涯未婚5人に一人)(高齢者は増えるが子供が増えない)120130nk [未来予測]

50年後の日本(総人口4000万人減)(生涯未婚5人に一人)(高齢者は増えるが子供が増えない)120130nk120322

総人口図.png

50年後の日本(総人口4000万人減)(生涯未婚5人に一人)(高齢者は増えるが子供が増えない)
高齢者を大切にする社会は良い社会と思うが、若者たちが低賃金で、昇給も無くて結婚もできない社会はいづれ消えてしまうだろう。
公務員も若者の採用を大幅に減らして、高齢者の待遇を守る、政府が後押しをする。
どこか変だ。元気な子供があふれる社会を作っていかなければならない。
1月の日経新聞の記事を見て改めて消滅する日本を思った。地震震災もリスクだが。少子化はもっとリスクかもしれない。


出生率再び低下―――生涯未婚5人に一人
今回の将来推計人口では、女性が生涯に産む子どもの平均数を示す出生率の長期見通しは、最近の出生率の改善傾向を反映し、2005年の前回推計の1・26から1・35に上方修正した。ただ10年は1・39と回復した出生率の上昇は続かず、14年からは再び低下に転じる見通しだ1995年生まれの世代の生涯未婚率は2割に達する。 出生率は晩婚化や晩産化の影響で05年には過去最低の1・26まで低下したが、その後はいわゆる出生率、再び低下傾向40歳前後に到達した「団塊ジュニア」 (1971~74年生まれ)の出産`で上昇、10年には1.39まで回復した。 ただ今回の推計では14年から再び低下傾向に転じ、24年には1・33まで下がると分析。その後は若干持ち直すものの60年時点でも1・35の低水準にとどまる。  非婚化や晩婚化は一段 と進むとみている。19 60年生まれの世代の生 涯未婚率は9・4%だが、 95年生まれの世代は2倍 に増える。平均初婚年齢 は60年生まれの25・7歳 から95年生まれで28・2 歳まで上昇する見通しだ。 平均寿命も60年生まれ の人で男性で84・19歳、 女性で90・93歳と10年よりそれぞれ4年程度伸びると分析している。

「チーズ(輝かしい日本)はどこへ消えた?」Who moved my cheese?を読んで [日本を元気にする]

チーズはどこへ消えた?」Who moved my cheese?
スペンサージョンソン著を読んで120319

チーズはどこへ消えた?を読みました。
実は友人のナイジェリア人と日本の将来について話していた時に紹介されました。彼はナイジェリアでのいろいろなことわざを教えてくれました。
「家が燃えているときにネズミを追いかけるな」ナイジェリアにはネズミがとても多いようです。国家が破たんしそうな日本で、権力争いをしたりしているのはそっくりです。破たんを防ぐのが先でしょう。
又、「穴に入っている人はそれ以上穴を掘るな」出られなくなってしまうということですが、1000兆円に及ぶの借金を持ちながらさらに、借金をして新幹線を作ったり、高速道路を作ったり、ダムを作ったり、馬鹿じゃないでしょうか。政治家の皆さんはこの本を読んで勉強してください。

ちょっと話題になっている本です。アメリカでは2年連続で、ベストセラーだとか・・・・
短い本だからすぐに読めてしまいます。
出てくるのはチーズ(これは人生で追い求めるもので仕事やお金、愛、自由などを象徴)
迷路(これは会社であったり地域社会であったりチーズを探し回る場所を象徴)
それから、ねずみスニッフとスカリー(頭脳のない単純な行動だけど優れた本能がある)
と小人のヘムとホー(頭脳は優れているが・・・・・・)。
これだけです。迷路の中を、2匹と2人がチーズを捜し求めて走り回ります。
そしてある日、ついに多量のチーズを見つけます。
2匹と2人はチーズを楽しみ幸せに暮らしていたのですが・・・。
苦労の末に見つけたそのチーズは、ある日突然なくなってしまうのです。
そのあと、小人とネズミたちは「この一大事」にどう対処しその結果どうなったのか
と言う物語です。

自分自身の危機管理って言うことですよね。
ネズミたちは、毎日チーズに注意を払っていて少しずつチーズが減って、味も変わって
きているのに気づいていたから、突然なくなっても次のチーズを探しにまた走り出します
(突然の状況の変化には、単純な考え方のほうが強いってことなのか)。

しかし、小人たちはその状況をなかなか受け入れられずに右往左往します。
状況を分析しようとしたり、ほかの誰かのせいにしたり(きっと私もこうするでしょう)。

その後、小人たちは新しいチーズを求めて迷路に出て行こうとするホーと
探し回るよりも、チーズが戻ってくることを期待して動けないヘムに分かれます。
ホーは「古いチーズに早く見切りをつけたほうが、それだけ早く新しいチーズが見つかる」
「チーズがないままでいるより、迷路に出たほうが安全だ」と考えます。

本の中に出てくる小人たちはバブルで浮かれ、いまや思いもよらない不況、政治不信で悩んでいる日本人みたいだと思って読んでいました。
変化を認めないヘムのように身動き取れないでいる日本!
変化に向かって進まなければ新しいチーズも手に入らないのになんてね。

でもそうしているうち、自分自身はどうなんだろうって思って読んでいました。
チーズは人によって違うでしょう。会社の地位、給与かもしれない。
奥さんや子供かもしれない。

手に入れたチーズがなくなるなんて事、考えてもいない
どんな状況になっても私は安全とだれでも
ノー天気にタカをくくっている自分に気がつくのです。
国内外で起きてるいろんな災害や事故、事件はまるでドラマか小説かのような感じで、こんな事が私の身の回りで起こるはずがないなんて・・・・
特に2011年3月11日に起きた東日本大震災などのように突然当たり前であった、生活や家族や町が消えてしまうことが起きるのです。

そして、突然何かが起き、手の中からチーズがなくなってしまったら
さて、私もあなたもどう行動するのでしょうか。
私としては、勇気をもって迷路に出て行く「ホー」でありたいと思っていますが・・
きっと、ヘムのようにうじうじと古いチーズに未練を残して留まったままでしょう。
古くて食べられなくなってしまったり、なくなってしまったり、切羽詰らないと
何とかなるだろうとか、もうちょっと待ってみようとか思うでしょうねーー
チーズはなくなるってこと、新しいチーズは探さないといけないっていうこと。
これって、解ってるようで解ってないんだよね。

ホーが自分が学んだこととして壁に次の事を書き付けます。
「変化は起きる」
「変化は予期せよ」
「変化は探知せよ」
「変化にすばやく対応せよ」
「変わろう」
「変化を楽しもう」
「進んですばやく変わり再びそれを楽しもう」
このことは私も心に刻んでおきましょう。
そしてじっくり私のチーズを観察しておきましょう。
いつか起こるかも知れない急激な変化に備えて!

ホーは迷路の中で、新しいチーズを見つけます。
そして、まだ迷路に踏み出せないでいるヘムに向かってメモを書き残していきます。
「チーズと一緒に前進し、それを楽しもう」と。
私たちにとって、新しいチーズって何なんだろう・・

この本のあとがきに「わかりきったことなのに、普段は気にしないでいる
『大事なこと』に改めて気づかせてはくれるのは確かである」
とありますが、本当にそうです。

ところでねずみはどうしたかって?
彼らは動物的勘で小人より先に素早く行動し、チャンスを嗅ぎ付け、新しいチーズを見つけて安定した暮らしをしていたそうです。

われわれはどんな環境になろうとも、迷路の中で自分の道を見つけ
時代の変化の中で望みを成就させねばならないということだ。

人口激減社会を考える(週刊現代2012年2月25日号より) [厳しい現実]

人口激減社会を考える
週刊現代2012年2月25日号より(120308)


これから50年で日本の人口は4000万人以上減少する。1億2000万人が8000万人になれば、市場は4分の3になり、年金、医療、介護など社会保障が崩壊する可能性が大きい。
年金をもらえない老人たちがあふれ、物が売れなくなる。

GDPは2050年には42%減少するという。
現在のGDPは500兆円だから200兆円消えてなくなる。

大都市の近郊でも過疎化が進み、学校が消え、病院が消える、
多くの私立学校は閉鎖し外食産業は4割減、住宅産業、ファッション、関連3割減と予測される。

コンビニ業界は高齢者などに対応しながら、新しい業態を見出していけるかもしれない。

「人口減で消えていくもの」
人口が減れば新築は減り、家具やエアコンなど家電も売れなくなる。
地価も当然下がっていく。
ワンルームマンションやアパートはなくなっていく。

町の産業が衰退すれば税収が減り、医療教育など行政サービスの質が低下し、消防車や救急車がなかなか来なくなる。

学校の統廃合が進む、学習塾の多くが倒産する。公園は維持費がかかり空き地が増える。

公共交通機関が減少し、自動車の利用が増えるが道路はガタガタが増える。
ガソリンスタンドが減少し、宅配なども減少する。

「35歳以下の日本人はかわいそうすぎる」「生まれた時点で借金8309万円」
老人3000万人の面倒を見る。親と同等かそれ以上に経済的に豊かになるのは無理と若者は
思っている。
内閣府の試算によると


年金収支は
1950年生まれ(現62歳)
保険料支払額総計1436万円
受領額1938万円
502万円プラス
1960年生まれ
保険料支払額総計2066万円
受領額1783万円
283万円マイナス
1975年生まれ
588万円マイナス
1985年生まれ
712万円マイナス
払えば払うだけマイナスになる。

年金以外にも、道路やダムなど社会資本や医療介護など公共サービス収支、税金保険料など総負担を「世代会計」として評価すると

生涯収支は
60歳以上は3962万円プラス受益
50歳代989万円プラス
―――――――以下は支払い超過
40歳代172万円マイナス
30歳代833万円マイナス
20歳代1107万円マイナス
20歳以下0歳まで8309万円マイナス

悲惨なのは現35歳以下
バブル期は10歳代で恩恵なし
就職氷河期
給与が上がらない
(1935年生まれは入社時100とすると―35歳には300、定年時には600は超えた。
しかし、75年生まれは35歳で200程度で上がらない)
給与が上がらないと結婚もできない。
30-34歳の未婚率
1985年男性28%-女性10%であったのが
2010年男性47%-女性35%
若者が未来に夢を持てない国、借金を返すだけの人生に誰がしたのか。

「貧乏暇ありの暮らしのすすめ」 だれでもハッピーになれるぞ! [豊かさとは、幸福とはなにか]

「貧乏暇ありの暮らしのすすめ」 120301
文明に振り回されない、文明の奴隷にならないこと

数十年前海外でビジネスをしていた時に聞いた話です。
南太平洋のサンゴ礁に囲まれた美しい、小さな島の住民はみんな、お金は持っていなかったが、みんな平等で、争いもなく仲良くハッピーに暮らしていた。誰も自分が貧乏と思っていなかった。買うものがないものだから、お金は必要なかったし、だいたい、貧乏という言葉がなかった。英語で「もったいない」という言葉がないのと同じだ。

ある時、米軍が基地を作って、アメリカ人が移住してきた。
テレビや自動車、きれいな着物、おいしい食べ物も一緒に入ってきた。近代文明が同時に入ってきたということだ。

それまでは、島にあるもので充分満足し、豊かな気分で浦島太郎のように、暮らしてた人たちが、パンドラの箱を開けてしまった。

みんながテレビや自動車をほしがり、きれいな着物をほしがるようになった。
ほとんど何も仕事しなくて、海にいる魚を食べるだけ採り、1年中実る庭のバナナを食べて、のんびり暮らせて行けたのに、テレビや自動車を買うために朝から米軍基地で働くようになった。

仕事の内容や、たくさん働く人、能力差などで金持ちと貧乏人が生まれ、報酬の高い仕事を求めて、人々は競って、いろいろ争いごとも起きるようになった。

シリコンバレーの成功者にある人が質問した。
そんなに夜も寝ないで仕事して、使い切れないほどのお金を稼いでどうするのですかと。
「将来、南の島でのんびり、夕景を見ながら暮らしたい」と答えたという。
この成功者は人生の貴重な時間ををお金に換えたといえます。

昔から「貧乏暇なし」といいます。
「金持ち暇なし」とも言われます。

平均寿命も延びてこれからは「貧乏暇あり」の暮らしが日本の理想ではないかと、評論家の誰かが言っていました。
江戸時代みんな自動車もテレビもありませんでした。庶民は宵越しの金は持たずに生活を楽しんでいました。
歌舞伎や浮世絵など世界に誇る文化も生まれました。石油や機械も使わずに持続可能なエコ社会でした。

これらを参考にして、文明の奴隷にならずに南の島の暮らしや江戸時代の暮らしを取り込めば、だれでもパッピーになれる。

これからは金持ちよりも暇もち(時間もち)の方が尊敬される時代だ。
定年後の多くの人はその点では有資格者です。使い切れないほど、有り余る時間を持っています。(10万時間以上)
シリコンバレーの成功者以上に時間については豊かだといえます。
いつまでも高度成長時代の再来を夢見ないで、今で充分豊かであり、満足できる。これ以上のぜいたくを求めずに、幸せな暮らしとは何か、じっくり考える時が来ています。


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