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「そ・わ・か」の法則 (サンマーク文庫) 文庫 – 2011/11/14 小林正観 (著) [元気でハッピーになる秘訣]

「そ・わ・か」の法則 (サンマーク文庫) 文庫 – 2011/11/14 小林正観 (著)
生きることが楽しくなり、すべてが“幸せ”色に変わるキーワードは、「掃除」「笑い」「感謝」の3つ。
トイレ掃除をしていると、お金が流れ込んでくる。いつも笑いを忘れないと、心身ともに健康になる。
「ありがとう」を言いつづけると、悩みが消える。すぐにできて、お金もかからない、これらのシンプルな実践によって、人生はがらりと変わる。
目に見えない「宇宙の法則」を30年にもわたって観察・研究しつづけてきた著者が「実践方程式」を明らかにした書。

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「き・く・あ」の実践 (サンマーク文庫) 文庫 – 2011/11/14 小林正観 (著) [元気でハッピーになる秘訣]

き・く・あ」の実践 (サンマーク文庫) 文庫 – 2011/11/14 小林正観 (著)

文庫

幸せとは、何でしょう。
この人生を、楽しく生き抜くには、どうすればよいのでしょう。
その鍵は、3つのキーワードに集約されます。
それは――「き」=“競わない”、「く」=“比べない”、「あ」=“争わない”。
この世には、じつは「幸せ」という“現象”があるわけではありません。
起こってきた現実を、あなた自身がどう思うか。
そのための実践法が、この3つのキーワード。
あなたもこの生き方を実践して、喜びいっぱいの人生を送りませんか?
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良寛のライフスタイルの中には幸せの原点がある [貧しくても心豊かに暮らす法]

良寛のライフスタイルの中には幸せの原点がある
ブログより

>「風の良寛」 中野孝次より「これからのセカンドライフを考える」
120409
実に質素に、自然とともに、名利、地位財産も求めず、淡々と生きたすごさは、これからの時代の生き方に大いに参考になると思う。国民全体が貧乏になるからではなく、物質的豊かさから離れても十分人として豊かに生きられることを実証してくれたからだ。
若者たちが良寛的な生き方をみんなやっていたら日本経済は間違いなく破たんするだろう。若者は環境など考えながら永続可能な社会づくりに汗を流すべきだろう。経済基盤は無視はできない重要な要素だ。
特に生産活動、経済活動をしていない団塊世代などはセカンドライフに利用したらよいと思う。

自分の命は、どこからきて、どこに行こうとしているのか。私はこの無限の疑問にとらわれ、草庵の窓の下で坐禅しながら、正しい姿勢で静かに瞑想しているが、いくら考えても、そもそもの始めもわからないのだから、終わりがわかるはずもない。始めと終わりばかりか、現在のこの自分さえわからない。思えば万物はへめぐり来たってすべて空か。自分という者もまた、空の中にしばらく存在するにすぎぬ。そんなところにどうして、是だの非だのがあろう。だから自分は、どうこういうことなく、なるがままにまかせてゆったりとした気持ちで、この束の間の人生を生きよう。(p95~98)
草の庵に 足さしのべて小山田の 山田のかはづ 聞くがたのしさ (良寛)

こういう心の有り様を、現代人は味わうべくもあるまい。じっと蛙の声に耳を傾ける代わりに、たちまちテレビをつけ、らちもない画像にげらげら笑いする。

じっとしている。何もしないでいる。自然の中に心を遊ばせるという良寛がしたことを、現代人はもうできなくなっているのだ。

絶えず映像や音声の氾濫の中にあり、刺激なしにはいきられなくなっている。これでは良寛の、また昔からの古仏達の味わってきた深い心の充実など、もはや求むべくもない。

文明が進歩すれば人間が幸福になる、というのは間違いであった。テレビなんてものができたために、人間は途方もなく浅薄になった。人生を自分一人の力で味わう力がなくなったとでもいうしかあるまい。

だれでも、できれば自分一人の力で生きているということを味わい、深い安心を得たいと願っているのである。無為の充実。充実した単純さ くらい上等なものはないと良寛を通じて人は知る。その点でも良寛は現代人の対極にいる。(p107)
とかく人は、禅僧が悟りを得た。大悟一番したといえばそれっきりで終わりで、悟りの状態は何もしないでも生涯続くかのように思いがちだが、そんな安直なものではないのだ。むしろ、悟りをひらいたあとにこそ本格的な修行が始まる。これは、悟りというものが固定した何かでなく、修行によってのみ保たれる精神の状態であるからにほかならない。(p138)
「徒然草」に
名利に使われて 閑かなる暇なく 一生を苦しむるこそ 愚かなれ(第38段)欲がある限り、人はいくら物や金を持っても充足しないことを、われわれはあの
欲がある限り、人はいくら物や金を持っても充足しないことを、われわれはあの高度成長中の日本・日本人においてさんざんに見た。物の所有には自足するときがなく、つねに他人の所有と比較することになるから、他人が自分よりいい物をもっていればそれ以上の物をと意欲する。互いに競い合い欲の炎を燃やし続けたのがあのころの日本人であった。いい按配にバブルがはじけ、それ以後あの病は一応収まったかに見えるが、欲がある限りはいつでもまた再現するだろう。
その欲を元から断つのである。そうすれば、粗末な食い物でも空きっ腹にはうまく味わわれるし、ボロでも寒さふさぎに役立つ。とにかく欲がないから自由で、天下に自分を拘束するものはない。そこで、気の向くまま山林に入っては鹿と遊んだり、村に出かけては子供らと毬つき歌を高らかに歌う。名利を求める心がないから、何をしても自由なのだ。世間の嫌なことを聞いたら、堯帝から天下を譲ると聞いて耳が汚れたと、許曲が穎水で耳を洗ったという故事さながら、崖の下の清い水で耳を洗う。そして、嶺に鳴る松風の音を聞いて気持ちを清らかにする。(p157)

とある。たとえどれほどの富を得、どれほどの名声を得ようと、そういう外物のために捧げた生ほど愚かしいものはないのは、ちょっと考えれば誰にでもわかることだが、世の人の多くはそっちを選んでしまう。

四畳半くらいに小さな住まい

良寛50代の住まいー五合庵
ここで子供たちと戯れ、時間を過ごした。何もない狭い庵は無限の豊かな空間なのかもしれない。
外人に言わせれば「シンプルライフ」かもしれないが、もっともっと奥が深い。日本人の文化は底知れない。
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いっぱい愛された子供は優しい人になれる。優しい子供は心豊かに成人し、幸せになれる(井深大の遺言) [元気でハッピーになる秘訣]

いっぱい愛された子供は優しい人になれる。優しい子供は心豊かに成人し、幸せにになれる
ソニーの創業者である井深大氏は晩年,数億円の私財をつぎ込んで、21世紀の豊かさを研究し結論として
「21世紀には豊かであるとは、いかに優しいかを意味する」と断言した。
実証するために、世界中から心理学者などを集めて、どのようにしたら優しい子供ができるかを研究させた。
いくつかの結論が出てきた。
①親が大金持ちとか大貧乏とかは子供がやさしい人間に育つかとはほとんど関係がないこと

②5歳くらいまでにたくさん愛された子供は優しい子供になる。
どんな大金持ちの子供でも、母親がいつも泣いている後姿を見ながら育ったり、お前なんか生まなければよかったなどと言われて育ったら、冷たい心の人になってしまう。
逆にどんなに貧乏でも、おじいちゃんおばあちゃん含めて皆からお前は良くこの家に生まれてくれた、お前が生まれてくるのをみんな楽しみにまっていたのだ。と愛されながら育ったこどもは本当にやさしい子供に育つ。

井深氏は研究の途中で以上の二つを結論つけた。

井深氏は妊産婦を集めてよく話をした。「皆さんはよいこども、優しい子供を育てるという、もっとも尊い仕事をしているのです。誇りを持ってがんばってください」と志の中途で惜しくも亡くなれた。

みんな限りなくぜいたくを追い求め、疲れ果てるまで競争して、くたくたになってきている。大きな社会変化の中で本当の豊かさ、幸せな何か考えるべき時が来ている。井深氏の遺言を生かし、社会全体でやさしい子供を育てようでありませんか。

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無財の七施(むざいのしちせ) [貧しくても心豊かに暮らす法]

無財の七施(むざいのしちせ)
私は特に仏教徒ではないのですが、自分も周りも幸せにすると言われている、「無財の七施」を紹介したいと思います。
佛教の教えは実践して初めて真理を体得できるという。この実践することを行(ぎょう)といいます。難行苦行ではなく日常生活でできるものです。人々が人間形成に励みながら安らぎの境地に至る行の一つが「布施」です。『雑宝蔵経』というお経に書かれています。
一般的には布施というと金品を施す『財施』ですがお金をかけずだれでもできる布施として『無財の七施』があります。私たちが、お金がなくても物がなくても周りの人に喜びを与える方法を説いたものです。
これら身近な奉仕の実践は自分を磨くだけでなく人々の心を和ませることができます。
目次
1 眼施(がんせ)…いつも優しい眼差(まなざし)しで人に接する。
2 和顔悦色施(わがんえつじきせ)…いつも笑顔で接する。
3 言辞施(ごんじせ)…優しい言葉で接する。
4 身施(しんせ)…困った人を見たら助けてあげる。
5 心施(しんせ)…ほかの人のために心を配る。
6 床座施(しょうざせ)…席や場所を譲る。
7 房舎施(ぼうじゃせ)…訪ねてくる人がいれば一宿一飯の施しを行い労をねぎらう。
8 まとめ
1.眼施(がんせ)…いつも優しい眼差(まなざし)しで人に接する。
『目は口ほどに物を言う』と云われるように、言葉を発しなくてもお互いに相手の想いはある程度わかります。また『目は心の窓』とも云われ、心の中は目に表れます。
心の中は、言葉でいくら取り繕(つくろ)ったとしても誤魔化すことは出来ません。相手を思いやる心を持っていれば、自然と優しい眼差しで相手を見つめ、心が伝わります。
突然優しい眼差しを向けようとしても、日ごろから慈悲の心を持つように心がけていなければ、自然に出てきません。優しい眼差しは、相手を和ませお互いに打ち解け、幸せを与える、ことなります。
優しい眼差しを向けることは、日ごろから優しい心を修養する『行』であり『布施』です。
2.和顔悦色施(わがんえつじきせ)・・いつも笑顔で接する。
表情は眼施と同様に、その人の気持ちを表します。たとえ言葉が違う外人でも、表情を見れば一目で喜怒哀楽が伝わります。
『笑う門には福来る』という格言があるように、笑顔は人の心を惹きつけると共に周囲の人をも明るい雰囲気にさせます。
日々楽しいことばかりではありませんが、努めて笑顔で接することによって幸運が自ずと引き寄せられてくるようです。
3.言辞施(ごんじせ)…優しい言葉で接する。
言葉は、人と人とのコミニュケ-ションを円滑に図る上で大切な、人間だけが持つ心の伝達ツ-ルです。感謝の気持ちをもって伝える言葉に誰も悪い印象は受けません。
『ありがとう。』『お世話になります。』『お疲れ様。』…など日本語にはすばらしい言葉がたくさんあります。努めて、感謝の言葉、思いやりの言葉で接することによってお互いに円滑なコミニュケ-ションが出来ます。
また、挨拶は言われてからするのと、自分から進んで言うのとでは印象が大分違ってきます。進んで挨拶をすると気持ちも良く、相手からも好印象を受けます。
優しい言葉を日ごろから使う習慣を身につけていると、心のお布施が蓄えられ、やがて周囲から幸運を運んできてくれることになるでしょう。
4.身施(しんせ)…困った人を見たら助けてあげる。
損得は抜きにして、困った人がいたら自分の体を使って奉仕することを説いた教えです。お年寄りが重い荷物を背負っていたら持ってあげる、というように困っている人がいたら体を使って助けてあげる奉仕です。
どんなに思っていても、それを実行しなければ奉仕にはなりません。『思うだけなら誰でもできる。』まさにその通りです。せっかく良いことを思っていたなら、それを実行することです。
『思う』だけの人と『実行する』人とでは人間の価値として雲泥の違いがあるということです。『思ったら実行する』これは平凡なことのようで実際には、非凡なことなのです。
駅のホ-ムから転落した人を救った人、海でおぼれかかった子供を救出した人…他人のために身を以て奉仕した人たちは周囲の人たちに感動を与えます。
5.心施(しんせ)…ほかの人のために心を配る。
人の心はとてもデリケ-トです。心は隠しようもなく、言葉や態度に表れます。とかく、自分だけ良ければいい、と利己的に考えてしまう心が他人の信頼を失い、和を乱してしまうのは、日常生活の中でもしばしばあることです。
『他人の不幸は我が身の幸せ』という言葉が横行する風潮も、身勝手で自己中心的な人間の一面を風刺した言葉です。他人の喜びも悲しみも、自分のことのようにその人の身になって考えられる人が多ければ、世の中に戦争や犯罪はなくなるかも知れません。
悪いこともしないけれども良いこともしない、という人はたくさんいます。しかし、それだけでは自分を守っているだけに過ぎないということを自覚し、日々、人の身になって考えられるように修養したいものです。
『布施』とはお金や物だけでなく、心を施すという心で生きることの大切さを知れば、自分を高めていくことにもなります。
6.床座施(しょうざせ)…席や場所を譲る。
私たち日本人には素晴らしい伝統があります。
例えば、電車で立っているお年寄りに席を譲る、また東北で起きた大震災の時には、限られた食料を分かち合うなど海外の人に感動を与えました。つまり、譲り合うという心です。
何事も、独り占めにしようとすることから争いが起こります。お互いに、譲り合う心を持って日々生きている限りお互いに感謝の絆で結ばれていきます。
7.房舎施(ぼうじゃせ)…訪ねてくる人がいれば一宿一飯の施しを、行い労をねぎらう。
2020年のオリンピック会場が東京に招致されることが決まったのは。8名のプレゼンタ-の功績が大きかったと云われています。
滝川クリステルさんは、『おもてなし』という日本人の心をアピ-ルし、流行語になりました。まさにこの言葉こそ、来る人への心配りの精神を的確に表現しています。この中には、訪問する人のことを思い、居心地良く滞在していただくことへの気配りが現れています。
気配りや心配りも、人に対する思いやりの心から自然に表れてくるものです。
まとめ
布施とは金品を施すことばかりではなく、優しい心を持って施すのも布施である事に気づかれたのではないでしょうか。
『無財の七施』の教えに共通することは、『人には優しい心を持って接する』ということの『行』であり、『実践』です。人を思いやる心は、言葉で言わなくても行動することで伝わります。
ですから、日頃から『優しい心』をもつ修養を積むことが自分を高め、人を幸せにすることにつながります。
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資本主義の次に来る世界(LESS IS MORE)「少ない方が豊か」 [未来予測]

資本主義の次に来る世界(LESS IS MORE)「少ない方が豊か」
ポスト資本主義の倫理、すべての存在とともにあること

資本主義の次に来る世界がどんな世界なのか、本当に知りたい。一言で言えば、「経済的成長を求めず、生態系と一体になって暮らす」世界ということになろうか。しかし、私たちは資本主義しか知らないし(p.32)、GDPがマイナスだと不安になる。その昔、「経済成長はすべての社会問題を解決する」と先輩が言っていたことを思い出すが、どうやらこれは間違いのようだ。本書は、経済や科学技術の未来予測ではなく、人類の未来はどうあるべきかを説いている。

1.資本主義はいつ始まったのか
 資本主義がこの人類の危機をもたらしたと主張するからには、資本主義とはどのようなもので、いつ始まったのかを明らかにしなければならない。本書の第1章は、明確にそれらを説明している。
 資本主義が誕生したのはわずか500年前のことである(p.47)。16世紀~18世紀にイギリスをはじめとするヨーロッパで行われた「囲い込み」(p.53)、1492年のコロンブスによる新大陸の発見より続く「植民地化」(p.57)が、資本主義の基盤となった(p.60)。囲い込みで土地を奪われた人々は、都市に流れ込み安価な労働力を提供した。植民地化は植民地の生態系に大規模なダメージを与えたばかりでなく、ヨーロッパへの原料の供給源に、そしてヨーロッパからの商品の大量消費市場になることを強いた。

〔1350年~1500年:ヨーロッパ労働者階級の黄金時代〕
 1347年に黒死病(ペスト)が流行し、ヨーロッパ人口の3分の1を死に追いやった。これによって労働力が不足し、一方、土地は豊富にあったので、小作農と労働者が交渉力を持つようになった。彼らは反乱を起こし、最終的には鎮圧されたものの、ヨーロッパの大部分で農奴制の廃止につながった。後の歴史家は、この1350年から1500年を「ヨーロッパ労働者階級の黄金時代」と呼んだ(p.48-51)。なお、この部分の原注に『資本論』が引用されているのだが、歴史家にマルクスが含まれるということなのか。
 黄金時代を過ぎ、産業革命の時代になると平均寿命が著しく低下し、イギリスのマンチェスターではなんと25歳になったそうだ(p.56)。

2.生態系はどれだけ危機的状況にあるのか
 生態系の危機は、資本主義がもたらした必然的な結果である(p.47)。どれだけ危機的な状況にあるのか、2章で詳細に語られる。
 この危機は「生産高を上げて賃金や社会サービスを向上させることを目指すのではなく、成長そのものを追求せよ」という新しいルールによってもたらされた(p.104)。つまり、使用価値ではなく、交換価値が優先されるのである。

〔成長の限界〕
 1972年に出版されたローマクラブの『成長の限界』は画期的な報告書であった。環境保護関連の書籍としては類を見ないベストセラーとなった(p.126)。しかし『成長の限界』の限界は、資源の有限性だけに言及した点にある。本書で問題にする生態系の問題は新たな資源の代替では取り戻せないのだ。

〔マテリアル・フットプリント〕
 本書は資本主義の危機を訴えるのに、地球の温暖化、つまり二酸化炭素の排出量だけを問題にするのではなく、世界のマテリアル・フットプリント(消費された天然資源:Material footprint)を問題としている(p.108 図)。なぜならマテリアル・フットプリントは世界のGDPとぴったりと相関し(p.110 図)、化石燃料の消費だけでなく、その背後にある経済活動も反映させることができるからだ。マテリアル・フットプリントの閾値は500億トンが妥当とされている(原注p.11)。2000年には既に閾値の500億トンに達している(p.107)。
 『成長の限界』当時、「成長に限界はない」と言ったレーガン元大統領の言葉は(p.127)、間違いであるばかりでなく、実に危険な言葉なのである。

3.科学技術はその危機を救うことができるのか
 科学技術そのものを否定はしないが、仮に100%クリーンなエネルギーを得て、化石燃料を使わなかったとしても、森林を破壊したり、工業型農業を拡大したり、廃棄物を増やしたり、限界を超える影響を生態系に与えるに違いない(p.154)。

〔ジェヴォンズのパラドクス〕
 石炭の効率的な利用が可能となれば、無駄がなくなって石炭の使用量が減ると期待されるが、実際にはそうならない。効率が上がることで石炭の価格が下がり、かえって石炭の使用が増えるのである。1865年、ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズは既にこの現象に気付いていた。これは「ジェヴォンズのパラドクス」と呼ばれている。資源の効率的な使用は必ずしも資源の使用を抑えることにつながらないのだ(p.159)。

〔グリーン成長〕
 グリーン成長とは、OECDの報告書において、「経済的な成長を実現しながら私たちの暮らしを支えている自然資源と自然環境の恵みを受け続けることであると考えられています」と、環境省『平成24年版 図で見る環境・循環型社会・生物多様性白書』で説明されている。これは、経済成長が幸福な生活をもたらすという自動思考を免れていない。
 本書ばかりでなく私の知る限り、ハーマン・デイリー (2014)『「定常経済」は可能だ!』(岩波ブックレット)、竹内恒夫 (2016)『地域環境戦略としての充足型社会システムへの転換』
(清水弘文堂書房)、セルジュ・ラトゥーシュ (2019)『脱成長』(文庫クセジュ)なども、グリーン成長を否定する。

〔ティッピングポイント〕
 一番怖いのは、カーボンバジェット(炭素予算;温室効果ガス累積排出量の上限)を超過するとティッピングポイント(tipping point 転換点)に達し、気候が制御不能になることである(p.140)。既に一部の指標ではティッピングポイントを超えているという話もある。

4.本当に成長は必要なのか
 福利向上には高レベルのGDPは必要ないことが示される(4章)。GDPではなく、健康で長生きなどの福利指標でみれば、所得とは無関係であることが示されている(p.179)。また、幸福や充実感の指標でみれば、GDPとの関係は希薄である。このことを最初に指摘した経済学者の名にちなんで、「イースタリンのパラドクス」と呼ばれている(p.185)。
 コスタリカの例は驚くべきものである(p.181)。コスタリカは1980年代に平均寿命を延ばし、アメリカを追い越してしまった。その時の国民ひとり当たりのGDPはアメリカの7分の1であったばかりか、まったく成長しなかったのだ。
 GDPの成長がなくても、豊かになることはできるし、公平さは成長の代わりに豊かさを享受させてくれる。さらに、イノベーションのために成長は必要ないのだ。

5.対策
 生態系の問題の周辺に貧困やグローバルサウスの問題がある。著者は「人間の福利を選ぶか、それとも生態系の安定を選ぶか」という問題を設定し、生態系を選ぶと答える(p.202)。生態系を選ぶとは成長を止めるということである。しかし、グローバルサウスにおいてはいまだ成長は必要である。ここでの対策とは、グローバルノース(富裕国)の成長を止めるためのものになる。

〔5つの緊急政策〕
 グローバルノースの成長を止めるためのアイデア(ステップ)がなかなか面白い。それに結構実現可能性もあるように思える(p.211-23)。
・計画的陳腐化を終わらせる
・広告を減らす
・所有権から使用権へ移行する
・食品廃棄を終わらせる
・生態系を破壊する産業を縮小する

〔ポスト資本主義は民主主義から始まる〕
 さらに付け加えれば、川や山といった自然に法人格を与えるという方法も面白い。これはアイデアだけでなく、実際に行われていることでもある(p.287-9)。日本はほんの少し前まで、そういった世界だったのだ。
 不平等を減らし、公共財を拡大する。より高い賃金と短い労働時間という形で、生産性の向上がもたらした利益を労働者に還元できるはずだ(p.234)。
 債務の帳消しも検討される。古代オリエント社会では、借金は7年ごとに帳消しにされていたそうだ(p.239)。銀行は実際に保有する資金の約10倍の資金を貸し出しているが、「公共貨幣システム」というアイデアでは、保有する資金だけ、つまり銀行は100%の準備金を用意しなければならないとするのである(p.243)。
 ハウザーらの実験は興味深い。世代を超えて管理する共有資源を被験者に割り当てたが、68%の者は再生可能な量しか取らなかった。残りの32%は目先の利益のために共有資源を存分に使うという選択をした。さらに彼らをグループに分け、集団で決定するように求めると、100%次世代のために資源を残した。何度実験しても結果は変わることがなかった(p.247)。
 実験ではこのような理想的な結果になるのに、現実の資源利用ではこうならないのはなぜなのだろう。それは、わたしたちの「民主主義」が少しも民主的ではないからだ(p.248)。ポスト資本主義への旅は、この民主主義的行動から始まるのである(p.251)。

6.すべての存在のなかに生きる
 人類の危機に直面して、人々の倫理が崩れてしまうことが心配される。その倫理を支えるのが資本主義でないのは確かだが、本書はアニミズムを提示し、資本主義の先の倫理にしようとしている。なぜならアニミズムは徹底的にエコロジカルであるからだ(p.266)。
 人類学に登場する先住民はアニミズムの思想を持っている。さらに科学者は、人間、樹木、菌類、細菌、ウィルスと相互依存関係にあることを明らかにしてきた。つまり人間は徹底的にエコロジカルなのだ。
 ここまでは問題ない。しかし、17世紀オランダの哲学者スピノザを登場させる理由があるのだろうか。本書は、デカルトの二元論が結果的に資本主義を擁護し、その資本主義が生態系を破壊することで人類を危機に追いやっていると主張している。デカルトの二元論とは、精神と物質は基本的に二分されるとするものである。精神は神とつながりを持つが、物質は持たない。人間以外の自然は物質なのだ。自然をモノとみなすことができれば、それをどのように扱ってもいいはずだ。そして生態系は人によって破壊されることになったと言うのである(p.76-7)。
 デカルトが二元論なら、スピノザは一元論である。すべてのものは神の一部であり、神の顕現であるとする思想である。一般にこれは汎神論と呼ばれるが、スピノザの哲学をアニミズムと呼ぶには抵抗がある。そもそも、デカルトとスピノザを持ち出さなくても、アニミズムだけで論旨は通るはずだ。アニミズムは生態系とよく似合うし、セルジュ・ラトゥーシュもアニミズムに言及している。
 以上の不満はあるものの、資本主義を批判するばかりでなく、次の世界に導くアイデアが提示されており、読むに値する良書である。
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