SSブログ

「幸福度」調査ー男性40代最低でV字回復=女性は60代がピーク―第一生命経済研 [高齢者データ]

「幸福度」調査ー男性40代最低でV字回復=女性は60代がピーク―第一生命経済研
時事通信 8月7日(火)14時37分配信

幸福度に関する調査結果が発表された。
男性40代が最も低いとのことだが、日本人特有の幸福感で、自分の理想との比較や他人との比較で幸福感を決める傾向が強くみられ、もっとも企業戦士として厳しい環境にある世代が、低いのは理解できる。
詳しい報告書が出ているので、詳細はレポートを参考にされるとよいと思います。
あまり、新規性のある報告とは言えないと思う。

 男性は40代が最も幸福度が低く、年齢を重ねるごとに上がり、80代が最高に。一方、女性の幸福度は60代をピークに下がっていく。第一生命経済研究所(千代田区)が行った「幸福度調査」でそんな傾向が浮かび上がった。
 調査は昨年8~9月、全国30~89歳の男女763人を対象に郵送で実施した。
 幸せを感じている程度について10点満点で回答を求めたところ、男性は30代(6.83点)で高いものの、40代(5.51点)で最低となり、その後、回復して80代(8.00点)で最高となるV字を描いた。
 一方、女性は30~50代でほぼ横ばいだが、60代(7.32点)をピークに高齢になるほど下がった。
 幸せの判断基準は全体では「自分の理想との比較」(35.7%)が最多で、「他人や世間との比較」(24.1%)が続いた。
 同社研究員の小谷みどりさんは40代男性の幸福度が低いことについて、「40代は子育て、仕事やリストラ、親の介護などで特に精神的に大変なのだと思う。女性もストレスはあるが、人に話したり、男性より発散できているのでは」と分析している。

「たった一人の30年戦争」―小野田寛男を読んで120705 [元気でハッピーになる秘訣]

「たった一人の30年戦争」―小野田寛男を読んで120705
もう10年以上前に小野田さんの話を直接聞く機会があった。
30年もフィリピンルバング島のジャングルの中でどうやって野垂れ死にしないで生き抜いたか知りたかった。
1974年に救出された。
日本を考える意味で著書を改めて読んでみた。

フィリピンに派遣される前に、中野学校で特別な訓練を受けたそうだ。
陸軍中野学校二俣分校へ入校した小野田は、いきなり、無駄死にしないで生き残れと言われる。「たとえ国賊の汚名を着ても、どんな生き恥をさらしても生き延びよ。出来る限り生きて任務を遂行するのが中野魂である。」横山静雄中将が言った。「玉砕は一切まかりならぬ。三年でも、五年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が一人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな。」
小野田さんの精神の根幹はこの時代に身についたもののようだ。
講演を聞くと
30年は毎日戦闘状態の中で暮らしてきたので、毎日全力で生きることがすべてであったようだ。
生き抜くために毎日島の中を計画的に移動して暮らした。同じ場所に安住したら敵に殺されるか、30年も生きる意欲を失わずにいきられないだろう。
何もないところでも、毎日移動して住まいを変化させて、仮想の敵を意識して、生きる意味を見出していたのではないか。(毎日することがある事が大切)
高齢者などが元気に生きるには、有り余った時間に振り回されて、毎日tvのような受け身の暮らしは元気を生み出すようにはならない。常に、安住を否定し、新しい目標が必要なのだ。

二人の仲間を相次いで戦闘で失う。ここでも、常に前向きに考えるようにした説いていた。
仲間が殺されて、さびしくなり、元気を失うと、良い面を考えたという。
これまで、二人で食べたごちそうが一人で食べられるのはうれしいと考えるように努力したという。マイナスに考えるととても一人でジャングルの中で生きられない。
何度も救援隊が助けに行ったが、米軍の指令で来ていると信じて決して投降しなかった。
結局
鈴木紀夫という冒険家が小野田さんを連れ出した。
冒険家の彼は、小野田さん発見であまりにも有名になり、次の冒険をやらざるを得なくなった。そして次の冒険にヒマラヤの雪男発見を目指して活動中、雪崩で事故死してしまった。彼の人生も狂ってしまったといえる。
はしがきに
日本は戦前「命を惜しむな」と教えられ死を覚悟して生きた。
戦後は日本人は「命を惜しまなければいけない」時代になった。
何かを「命懸けでやること」を否定してしまった。
覚悟しないで生きれる時代はいい時代である。だが死を意識しないことで日本人は生きることをおろそかにしてしまっていないだろうか。
小野田さんのメッセージである。

Happy「しあわせを探すあなたへ」----映画を見て [豊かさとは、幸福とはなにか]

Happy「しあわせを探すあなたへ」----映画を見て

Happy「しあわせを探すあなたへ」120828映画見る(渋谷uplink)
ロコ・ベリッチ監督ドキュメンタリー、清水ハン栄治
エド・ディナー博士

ハリウッドで豪邸に住んでいる富裕層があまり幸せそうではない。アメリカは幸福度で世界23位と低い。そこで監督は4年かけて世界を巡り、幸福度研究の博士などを交えて幸福探しのロケを行った。何が幸福感を与えるのかについて、心理学や脳医学の権威たちが語り、サーファーやコメディアンら多彩な顔ぶれが登場する米ドキュメンタリーだ。
アメリカは経済は1950年から2010年までに3倍成長したが幸福は増えなかった。
コルカタのスラム街に住む人力車の運転手は、家族や友人に囲まれ笑顔が自然。事故で顔が変形した米女性は全てを受け入れることで平静に。人とつながることで喜びは生まれる、感謝すべきことを書けば幸福につながる
幸福は自分で見つけるしかないーーーーフランクリン
貧しくても幸せー支えあって生きている。

40%はinternal behaviorで決まる。
お金が増えても幸せにならない。
自然との一体感が幸福感を生むーーードーパミンがでる
(ドーパミンがなくなるとパーキンソンになる)
大自然との調和――サーファーの人生観―――運動がよいー体を使う

自分の好きなように生きる
すべてを受け入れると逆境からもどる
自己中心的で幸せな人はいない。
慈愛は幸福を招く
友人と仲良くする
日本は不幸な国――長時間労働や過労死――効率の限界―物質や経済成長が優先している
成長するために、文化を破壊し、環境を壊した。
日本は優しくなればより幸福になる
幸福度の高い人はーーコミュニティ貢献と関係があるーー困っている人を助ければ本人の心が満たされる。
ブータン
NGH――――自分の中に幸福がある。ものではない。
人々が幸福になる環境を作るのが政府の仕事。
成長は文化を破壊し、環境を犠牲にした。
教育、医療タダで、コハウジングが特徴。
食事を一緒にする。
共同で暮らす。
他人が持ち自分で持たないものはシェアすればよい。
デンマークは世界一幸福な国と言われている。

沖縄の100歳以上は世界一
農作業をする
歌って踊る
公民館サロンに集まり友達がいる。
人の絆
交流
人のために働く協働がうれしい。ドーパミンが出る。
人とつながると心が豊かになる。
心の目を閉じたら困るでしょう。---ヘレンケラー

アフリカ
自然と助け合って暮らす。
一緒にやることで幸せを感じる
笑うことが大切
ダライラマ
愛情は生まれた時から心の中にある
慈愛瞑想
定期的に親切なことをすると幸福度を上げる
感謝をすれば豊かになる
新しいことを始めること

うまくまとまっていないが、映画のキーワードをメモしてみた。
何かが見えてくるように思います。

長生きへ社会活動参加のススメ- 長生きする三要素は①適切な運動②栄養③社会活動への参加だ [元気でハッピーになる秘訣]

長生きへ社会参加のススメ(静岡県調査)

長生きへ社会参加のススメ(日経20120618)
  「適切な運動」 「栄養」 「社会活動への参加」。この3要素を満たした人は、1要素も満たさない人に比べて死亡率が半減するとした推計を静岡県が出した。中でも社会動への参加がとなることが分かったという。
   静岡県が推計
 静岡県は1999年、計1万363人の高齢者(65~84歳)を対象に飲酒や喫煙、運動格指数(BMI)こなど30~40項目を調べていた。今回はこの結果と、2010年までに亡くった1117人の当時の回答内容を統計処理して算出した。運動・栄養だけより効果その結果、週5日以上歩く(運動)
▽肉、魚、大豆、卵を含むおかずを1日3回以上食べる(栄養)
▽町内の作業やボランティア活動に週2回以上取り組む(社会活動)―の3要素を満たした人は、何も満たさない人より死亡率が51%減少した。
 運動と栄養の2要素だけでは32%の減少にとどまったといい、調査に協力した国立健康・栄養研究所(東京)の高田和子栄養ケアーマネジメント研究室長は「社会活動への参加が死亡率低下に効果がある」と指摘。静岡県は「県民に社会活動への参加を促したい」とし、結果を7月の東海公衆衛生学会で発表する方針。  

幸せの経済学―uplink映画(高坂勝コメンテーター)20120603 [豊かさとは、幸福とはなにか]

幸せの経済学―uplink映画(高坂勝コメンテーター)20120603

渋谷のuplinkという小さな映画館で幸せの経済学という映画があった。
20名くらいでいっぱいになるミニシアターだ。
そこで見た映画の内容は、グローバリゼイションー規模拡大を前提とした経済社会の限界と、小さくなることによる、人間性の復活や自然との融和などのローカリゼイションの可能性についてのものでした。
1956年アメリカは幸福度最高であった。
グローバライゼイション、限りない成長を求めて、現代社会は比較と競争によりグローバルに発展してきた。
しかし多くの弱者を苦しめてきた。
孤独な人は幸せにはならない。
2010年日本の大卒の50%余りが正規社員としての職についていない。
経済効率の名の下で働く楽しみ誇りを奪ってしまった。

インドの田舎の事例の紹介がある。みんなが仲良く協力して生きてきた。地元の地産食品で充分幸せな暮らしをしていた。
そこに新しい文化が入ってきて、人々は競争するようになりトラブルが起き、限りない欲望、消費社会に入っていく。
誰かに知られ、認められる社会――ローカライゼイション、地産地消、自然とのふれあい、ローカルフード
経済成長には限界がある。――――ローカライゼイションは重要だ。

高坂勝コメント
丸井に勤めていた時600万円の収入であったが今は、300万円。
収入は半分になったが、今は週休3日で、昼寝付きで、夕方から少し飲み屋をやっている。
狭い店で成長しないで幸せになる店をやっている。
自分で有機農業で野菜と田んぼで米を作っている。
自分でできることを増やす。
予防医学で医療費は1/3になる。ダウンシフティングを自分でやっている。

グローバリゼイションは500年前に産業革命で生まれた。
派遣社員なんて10年の歴史しかないのに、社会を壊した。

お金がなくても質素に楽しんで生きればよい。
テレビエアコン冷蔵庫照明なんていらない。
10万円で簡単な太陽発電で何とかなるもんだ。
小さくすれば人と自然の関係を強くする。成長が人々の不和を生み、
経済的圧力がコミュニンティと自然の関係がこわれた。
「半農半X」バリ式農業―半分踊り暮らし、半分働く
限界集落へ若者がいくーー昔の知恵を利用してローカリゼイションが進む。

「ミニマム主義」-経済成長のない小さいことのメリット、でも幸せ
1960年代まで自営60%で今90%がサラリーマン。
2004年シアトル反乱―米カナダメキシコの自由貿易でカナダメキシコがひどい目にあった。
経済成長が人を苦しめる。TPPの内容には注意がいる。

あなたは世界で何番目に富者(リッチ)か?-世界の順位がわかる。-グローバルリッチリストで年金生活者を評価してみる [年金月16万円でラクに暮らせる]

★あなたは世界で何番目に裕福か?(グローバルリッチリスト)
★『グローバル・リッチ・リスト』120418nk

 『グローバル・リッチ・リスト』は、世界における富の分布状況を明確に教えてくれます。
 このサイトでは、年収を入力するだけで、世界中で、自分が何番目に裕福なのかが一目でわかるようになっています。
米国のフルタイム労働者平均年収:5万8千ドルは世界の富者の1%に入る
日本の40歳代平均年収577万円は1%に入る
サラリーマンの平均年収412万円で5%以内に入る
フリーターの平均年収106万円でも14%以内に入る

ちなみに年金生活者(厚生年金で230万円として)11%以内に入り、順位は6億6957万位になる。
あなたの年収を入れて世界順位を調べてみてみよう。
いかに富者か驚く。


 このサイトの作成に関わったニコラス・ルーペ氏(32歳)は次のように話します。
「世界の他の地域に住む人たちと比べて、自分たちがいかに裕福かということをしっかりと認識してもらうのが、このサイトの趣旨だ。西側諸国では、ともすると有名人や大金持ちを見上げて、くよくよと考え込んでしまうが、このサイトはごく簡単な手法で、そうした見方を一変させるものだ」

 『グローバル・リッチ・リスト』は、ロンドンの双方向メディア会社、ポーク社に所属する、ルーペ氏をはじめとする数名の社員によって作られました。

 『グローバル・リッチ・リスト』は、世界に住む約60億人を対象に、世界銀行の開発研究グループが算出した数値を用いています。
 同グループの推計によると、世界の平均年収は約5000ドルです。

☆(利用方法等)
参考URLからグローバルリッチリストに行き、年収を入力して下さい。
世界で何番目かデータがでます。

☆自分がとてもいい時代に、そしていい国に生まれたことを再認識しました。☆
参考URL:グローバルリッチリスト
http://www.globalrichlist.com/index.php

出会うこころー岡部伊都子を読んで [豊かさとは、幸福とはなにか]

「出会うこころ」を読んでー岡部伊都子
120415
はじめて岡部伊都子の本を読んだ。
出会うというと人と出会うのが普通だろうが、ここには景色に出会う、本に出会う、歴史的な人に書物などで出会う、美しい雲に出会う。いろいろな出会いを紹介している。
豊かな出会いは本当の豊かさをもたらす。
いろいろな出会いを持つには、こちらの心に余裕がないとチャンスが得られないようだ。

マザーテレサ讃歌
何日も食べていないヒンズー教の家族にコメを少し持っていくと、その家の母親は半分を隣のイスラム教の家に持って行ったそうだ。あなたの家族は10人もいて隣人にあげるほどないでしょうと言うと、母親はあの人たちもずーと食べていないのですと答えたそうです。
「プア イズ ビューティフル」
貧しくて飢えて病み「いなくていいもの」とされる存在から素晴らしい魂があふれ、喜びに恵まれるとマザーは言った。
宗教民族を越えて愛せない世界の方が貧しいのではないか。

あとがき
「しあわせとは、どういうことですか」
若くて健康なキャリアウーマンに尋ねられた。幸せのただなかにいると思われる方が「昔はお掃除や台所もみんな悟りへの道だったのですね。今は何でも楽ですが何か大切なものを見失っているような気がする」といった。
物はいっぱいあるけれど「本当のもの」を知らない寂しさが語調に見られた。
失ってはならなかった人類や生命体の宝が、宇宙自然現象からも世界各地からもどんどん消えてゆく寂しさをどう止めていけるのかが著者の喘ぎであるという。

「風の良寛」 中野孝次より「これからのセカンドライフを考える」 [豊かさとは、幸福とはなにか]

「風の良寛」 中野孝次より「これからのセカンドライフを考える」
120409

実に質素に、自然とともに、名利、地位財産も求めず、淡々と生きたすごさは、これからの時代の生き方に大いに参考になると思う。国民全体が貧乏になるからではなく、物質的豊かさから離れても十分人として豊かに生きられることを実証してくれたからだ。 若者たちが良寛的な生き方をみんなやっていたら日本経済は間違いなく破たんするだろう。若者は環境など考えながら永続可能な社会づくりに汗を流すべきだろう。経済基盤は無視はできない重要な要素だ。 特に生産活動、経済活動をしていない団塊世代などはセカンドライフに利用したらよいと思う。

 自分の命は、どこからきて、どこに行こうとしているのか。私はこの無限の疑問にとらわれ、草庵の窓の下で坐禅しながら、正しい姿勢で静かに瞑想しているが、いくら考えても、そもそもの始めもわからないのだから、終わりがわかるはずもない。始めと終わりばかりか、現在のこの自分さえわからない。思えば万物はへめぐり来たってすべて空か。自分という者もまた、空の中にしばらく存在するにすぎぬ。そんなところにどうして、是だの非だのがあろう。だから自分は、どうこういうことなく、なるがままにまかせてゆったりとした気持ちで、この束の間の人生を生きよう。(p95~98)
草の庵に 足さしのべて小山田の 山田のかはづ 聞くがたのしさ (良寛)

 こういう心の有り様を、現代人は味わうべくもあるまい。じっと蛙の声に耳を傾ける代わりに、たちまちテレビをつけ、らちもない画像にげらげら笑いする。

 じっとしている。何もしないでいる。自然の中に心を遊ばせるという良寛がしたことを、現代人はもうできなくなっているのだ。

 絶えず映像や音声の氾濫の中にあり、刺激なしにはいきられなくなっている。これでは良寛の、また昔からの古仏達の味わってきた深い心の充実など、もはや求むべくもない。

 文明が進歩すれば人間が幸福になる、というのは間違いであった。テレビなんてものができたために、人間は途方もなく浅薄になった。人生を自分一人の力で味わう力がなくなったとでもいうしかあるまい。

 だれでも、できれば自分一人の力で生きているということを味わい、深い安心を得たいと願っているのである。無為の充実。充実した単純さ くらい上等なものはないと良寛を通じて人は知る。その点でも良寛は現代人の対極にいる。(p107)
とかく人は、禅僧が悟りを得た。大悟一番したといえばそれっきりで終わりで、悟りの状態は何もしないでも生涯続くかのように思いがちだが、そんな安直なものではないのだ。むしろ、悟りをひらいたあとにこそ本格的な修行が始まる。これは、悟りというものが固定した何かでなく、修行によってのみ保たれる精神の状態であるからにほかならない。(p138)
「徒然草」に
名利に使われて 閑かなる暇なく 一生を苦しむるこそ 愚かなれ(第38段)欲がある限り、人はいくら物や金を持っても充足しないことを、われわれはあの
欲がある限り、人はいくら物や金を持っても充足しないことを、われわれはあの高度成長中の日本・日本人においてさんざんに見た。物の所有には自足するときがなく、つねに他人の所有と比較することになるから、他人が自分よりいい物をもっていればそれ以上の物をと意欲する。互いに競い合い欲の炎を燃やし続けたのがあのころの日本人であった。いい按配にバブルがはじけ、それ以後あの病は一応収まったかに見えるが、欲がある限りはいつでもまた再現するだろう。
その欲を元から断つのである。そうすれば、粗末な食い物でも空きっ腹にはうまく味わわれるし、ボロでも寒さふさぎに役立つ。とにかく欲がないから自由で、天下に自分を拘束するものはない。そこで、気の向くまま山林に入っては鹿と遊んだり、村に出かけては子供らと毬つき歌を高らかに歌う。名利を求める心がないから、何をしても自由なのだ。世間の嫌なことを聞いたら、堯帝から天下を譲ると聞いて耳が汚れたと、許曲が穎水で耳を洗ったという故事さながら、崖の下の清い水で耳を洗う。そして、嶺に鳴る松風の音を聞いて気持ちを清らかにする。(p157)

とある。たとえどれほどの富を得、どれほどの名声を得ようと、そういう外物のために捧げた生ほど愚かしいものはないのは、ちょっと考えれば誰にでもわかることだが、世の人の多くはそっちを選んでしまう。

四畳半くらいに小さな住まい

良寛50代の住まいー五合庵 
ここで子供たちと戯れ、時間を過ごした。何もない狭い庵は無限の豊かな空間なのかもしれない。
外人に言わせれば「シンプルライフ」かもしれないが、もっともっと奥が深い。日本人の文化は底知れない。

ryoukaniori.jpg






良寛戒語.jpg




幸せな子―アウシュビッツを一人で生き抜いた少年  を読んで(普通に生きれることの幸せを思う)  [豊かさとは、幸福とはなにか]

幸せな子―アウシュビッツを一人で生き抜いた少年  を読んで(普通に生きれることの幸せを思う) 
[著]トーマス・バーゲンソールー120404

もう10年くらい前に学会の関係でポーランドに行く機会があった。ワルシャワから数時間汽車でアウシュビッツとビルケナウへいった。そこで数百万のユダヤ人がガスで殺された場所だ。
そこでは髪の毛で織った繊維とか、人体から作った石鹸だとか展示されていた。
ベッドは藁(わら)むき出しの粗末なもので夏の暑さや冬の寒さの厳しさは容易に想像できた。地下のガス室には一人で入ったが、鳥肌が立つようにひんやりと薄気味が悪かった。人間はここまでやるのかと思われるくらいの残酷さを感じた。
紹介する本はこの環境を運で生き延びた子供の物語である。「幸せな子」とのタイトルであるが決して幸せではなっかたと思う。「ラッキーな子」がふさわしいだろう。極限の不幸体験を知ることで「ただ普通に生きれる幸せを自覚することができる意味では良い本であると思う。

■信念とけなげさに幸運が目を止めた
 1944年のアウシュビッツ収容所は食べる物さえろくになく、人々はやせ衰え、働けなくなればガス室に送られた。子どもは役に立たないからと、多くが殺された。
 その地獄を、10歳で親と引き離されたトミー少年が奇跡的に生きのびる。一体どうやって生き抜いたのか――。
 著者のトーマス・バーゲンソールは国際司法裁判所の判事。チェコ生まれの米国人だ。ホロコーストが「歴史化」していく中、その一つ一つの生や死に人間の顔があるのだということを訴えようと、体験を本にした。
 生きのびたのは、一言でいえば幸運だったからだ、と著者はいう。
 収容所でガス室送りの選別があったとき、親しくなったポーランド人の医師が、リストからトミーの名前をこっそり外しておいてくれた。
 チェコを移送される貨車で、食べ物がなくて死にそうになったとき、跨線橋(こせんきょう)から地元の人たちがパンを投げてくれ、おかげで持ちこたえた。
 しかしそうした幸運は、トミーが自分から呼び込んでいるように思える。
 親衛隊が子どもを選別しているとき、彼は前に出て「大尉殿、僕は働けます」と訴える。面食らった大尉はトミーを選別から外してしまう。
 またある時は「子どもは前に」という命令を無視して列の後ろに隠れる。大人に押されても前に出ず、そこでも選別をまぬがれる。
 自分は絶対にお父さんやお母さんに会える。彼はそう信じていた。生きることをあきらめた多くの人々の間で、彼の生きようとする信念とけなげさはひときわ光っていたのだろう。だから幸運が彼に目を止めたのだ。
 アウシュビッツからの「死の行進」の途中、選別がある。グラウンドを端から端まで走れ。走れなかったらガス室だ。大人が力つきて倒れる中、トミーは親衛隊と軍用犬の間を必死で走りぬけた。ここであきらめるつもりはなかった、と彼はいうのだ。
 先行きの見えない時代である。そんな時代にいる私たちに、10歳の子が生き方を教えてくれている。

江戸時代の庶民は幸福だった(貧しくとも、思いやりと助け合いの中で人々は幸福に暮らしていた。) [豊かさとは、幸福とはなにか]

江戸時代の庶民は幸福だった
(貧しくとも、思いやりと助け合いの中で人々は幸福に暮らしていた。)
 (国際派日本人養成講座より)120328


東日本大震災で日本人の規律や行動が世界的に評価された。
私は日本人のDNAの中に日本人的行動規律は仕組まれているように考えている。
伊勢雅臣さんの記述を引用して、江戸庶民の生活規律の中に驚くべきルーツが見られる。
ハリスをはじめ当時日本をおとづれた外国人は口をそろえて驚嘆している。
ぼろを着て、貧しい食事をしていても、彼らは清潔で礼儀正しく振る舞い親切で幸福そうであった。
これから日本は特に経済の低迷で苦しい時代が始まり長く続くであろうが、江戸のライフスタイルと、幸福感をみれば。何が起きても日本人は幸せに生きていけると確信できる。



1.「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである」

 黒船によって武力でむりやり日本を開国させたアメリカが、初代駐日公使として送り込んだのが、タウンゼント・ハリスだった。ハリスは安政4(1857)年11月、初めての江戸入りをすべく、下田の領事館を立った。東海道を上って神奈川宿を過ぎると、見物人が増えてきた。その日の日記に、彼はこう書いている。

__________
 彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。----これが恐らく人民の本当の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。

 私は質素と正直の黄金時代を、いずれの国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ハリス江戸入りの当日、品川から宿所である九段阪下の蕃書調所までの間に、本人の推定では18万5千人もの見物人が集まったという。その日もこう書いている。

__________
 人々はいずれも、さっぱりしたよい身なりをし、栄養も良さそうだった。実際、私は日本に来てから、汚い貧乏人をまだ一度も見ていない。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
2.「だれもかれも心浮き浮きとうれしそうだ」
幕末から明治にかけて、日本を訪れた外国人がほとんど異口同音に語っているのは、日本人がいかにも幸福そうであったという点である。

 明治17(1884)年頃からしばしば来日した米国の女性旅行家イライザ・シッドモアは、鎌倉の浜辺でのこんな光景を描写している。ハリスも下田から江戸に上る道中で、似たような光景を見たのではないか。

__________
 日の輝く春の朝、大人は男も女も、子供らまで加わって海藻を採集し、砂浜に広げて干す。

・・・漁師のむすめたちが脛(はぎ)を丸出しにして浜辺を歩き回る。藍色の木綿の布きれをあねさんかぶりにし、背中に籠(かご)をしょっている。子供らは泡立つ白波に立ち向かったりして戯れ、幼児は砂の上で楽しそうにころげ回る。

・・・婦人たちは海草の山を選別したり、ぬれねずみになったご亭主に時々、ご馳走を差し入れる。あたたかいお茶とご飯。そしておかずは細かにむしった魚である。こうした光景すべてが陽気で美しい。だれもかれも心浮き浮きとうれしそうだ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 熱いお茶とご飯とむしった魚が「ごちそう」というから、決して物質的に豊かではないが、「だれもかれも心浮き浮きとうれしそう」に生活できる社会だったのだ。

3.欧米の貧民たちの暮らしぶりと比べて
 日本を訪れた西洋人たちが、日本人の幸福な生活ぶりに驚いているのは、当時の欧米社会と比較してのことであろう。たとえば、フリードリッヒ・エンゲルスは19世紀中葉のイギリスの貧民街の有様を次のように描写している。

__________
 貧民にはしめっぽい住宅が、すなわち床から水のはいあがってくる地下室か、天井から雨の漏ってくる屋根裏部屋が与えられる。
・・・貧民には粗悪で、ぼろぼろになった、あるいはなりかけの衣服と、粗悪で混ぜものをした、消化のわるい食料品が与えられる。
・・・貧民は野獣のようにかりたてられ、休息も、安らかな人生の享楽も許されない。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 工場主は子供をまれには5歳から、しばしば6歳から、かなり頻繁となるのは7歳から、たいていは8歳ないし9歳から、使い始めること、また毎日の労働時間はしばしば14時間ないし16時間(食事のための休み時間を除く)に及んでいること、また工場主は、監督が子供をなぐったり虐待したりするのを許していたどころか、しばしば自分でも実際に手をくだしていたことが語られている。[1,p133]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 当時、来日した欧米人はみな母国におけるこのような悲惨な下層階級の生活ぶりを知っていたはずだ。それに比べれば、海岸で大人も子供を一緒に海藻集めにいそしんでいる日本の庶民の光景は、いかにも幸せそうに見えたはずである。

4.貧しくとも幸福に暮らしている人々
明治10年代に東京大学のお雇い教授を務めたアメリカの動物学者・エドワード・モースは、日本とアメリカの貧困層を比べて、次のように書いている。

「実際に、日本の貧困層というのは、アメリカの貧困層が有するあの救いようのない野卑な風俗習慣を持たない」。日本にも雨露を凌ぐだけという家々が立ち並んでいるが、しかし「そのような小屋まがいの家に居住している人々はねっから貧乏らしいのだが、活気もあって結構楽しく暮らしているみたいである」。

 欧米では、貧乏人はスラム街に押し込められ、悲惨と絶望の中で生きていくしかないが、日本では貧しくとも幸福に暮らしている人々がいる、というのが、彼らの驚きであった。どうしてそんな事が可能になるのか?

 英国公使ヒュー・フレーザーの妻メアリは明治23(1890)年の鎌倉の海岸で見た光景をこう描写している。

__________
 美しい眺めです。----青色の綿布をよじって腰にまきつけた褐色の男たちが海中に立ち、銀色の魚がいっぱい踊る網を延ばしている。その後ろに夕日の海が、前には暮れなずむビロードの砂浜があるのです。

 さてこれからが、子供たちの収穫の時です。そして子供ばかりでなく、漁に出る男のいないあわれな後家も、息子をなくした老人たちも、漁師のまわりに集まり、彼らがくれるものを入れる小さな鉢や籠をさし出すのです。そして、食用にふさわしくとも市場に出すほどの良くない魚はすべて、この人たちの手に渡るのです。

・・・物乞いの人にたいしてけっしてひどい言葉が言われないことは、見ていて良いものです。そしてその物乞いたちも、砂浜の灰色の雑草のごとく貧しいとはいえ、絶望や汚穢(おわい)や不幸の様相はないのです。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「あわれな後家」も「息子をなくした老人たち」も、このように思いやりのある共同体の中でしっかり守られて、その平等な一員として生きて行けた。この思いやりと助け合いこそが、貧しくとも幸せに暮らせた理由であろう。

5.「自分たちが彼の分まで頑張るから」
海辺に住む漁師たちは海の恵みを共有しているから、こういう分かち合いも可能になるのだが、町中に住む人々の暮らしはどうか。

 明治11(1878)年に、東北地方から北海道、その後関西地方を日本人通訳一人を連れて旅したイギリスの女性旅行家イザベラ・バードは、奈良県の三輪で、3人の車夫から自分たちを伊勢の旅に雇って欲しいと頼まれた。

 推薦状も持っていないし、人柄もわからないので断ると、一番年長の男が「私たちもお伊勢参りがしたいのです」と訴えた。この言葉にほだされて、体の弱そうな一人をのぞいて雇おうと言うと、この男は家族が多い上に貧乏だ、自分たちが彼の分まで頑張るからと懇請されて、とうとう3人とも雇うことになった。

「人力車夫が私に対してもおたがいに対しても、親切で礼儀正しいのは、私にとっても不断のよろこびの泉だった」と彼女は書きとどめている。
 町中でも思いやりと助け合いが弱者を護っていたのである。これなら物質的には貧しくとも、欧米のスラムにあるような孤独、絶望という不幸とは無縁で暮らせただろう。

6.「口論しあっている日本人の姿を見かけたことがなかった」
このような社会では、喧嘩や口論もほとんどない。維新前後に2度、日本を訪問した英国人W・G・ディクソンは、こう述べている。

__________
 私は日本旅行のすべてにおいて、二人の男が本当に腹を立てたり、大声で言い争ったりしたのを見たおぼえがない。また、中国では毎日おめにかかる名物、つまり二人の女が口論したり、たがいにいかがわしい言葉を投げつけあったりしているのも一度も見たことがない。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 明治7(1874)年から翌年にかけて、東京外国語学校でロシア語を教えたレフ・イリイッチ・メーチニコフもまったく同様の体験を記している。_________
 この国では、どんなに貧しく疲れきった人足でも、礼儀作法のきまりからはずれることがけっしてない。・・・わたしは江戸のもっとも人口の密集した庶民的街区に2年間住んでいたにもかかわらず、口論しあっている日本人の姿をついぞ見かけたことがなかった。

 ましてや喧嘩などこの地ではほとんど見かけぬ現象である。なんと日本語には罵りことばさえないのである。馬鹿と畜生ということばが、日本人が相手に浴びせかける侮辱の極限なのだ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 口論や喧嘩は、利害の対立から生ずる。思いやりと助け合いに満ちた共同体では、各自が自己主張を自制するので、利害の対立は少なく、その結果、人々は互いに争うこともほとんどないのであろう。

7.「われわれはみな同じ人間だと信ずる心」
思いやりと助け合いの根底をなすのは、人々の平等感であろう。明治6(1873)年に来日して、東京帝国大学の外国人教師となったバジル・ホール・チェンバレンは「この国のあらゆる社会階級は社会的には比較的平等である」と指摘している。
__________
 金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。・・・ほんものの平等精神、われわれはみな同じ人間だと心から信ずる心が、社会の隅々まで浸透しているのである。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄冒頭に紹介した初代駐日公使タウンゼント・ハリスは、江戸での将軍家定との謁見については、こう書いている。
__________
 大君の衣服は絹布でできており、それに少々の金刺繍がほどこしてあった。だがそれは、想像されるような王者らしい豪華さからはまったく遠いものであった。燦然(さんぜん)たる宝石も、精巧な黄金の装飾も、柄にダイヤモンドをちりばめた刀もなかった。私の服装の方が彼のものよりもはるかに高価だったといっても過言ではない。・・・

 殿中のどこにも鍍金(めっき)の装飾を見なかった。木の柱はすべて白木のままであった。火鉢と、私のために特に用意された椅子とテーブルのほかには、どの部屋にも調度の類が見あたらなかった。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 日本の最高権力者である将軍は、米国の一公使よりも質素な服装をしており、逆に一般民衆には欧米社会のような貧民はいない。将軍から町民まで、「同じ人間だ」という意識が浸透していたのである。

8.幸福な共同体のありようを継承、再生する責務
このような幸福な共同体は、過ぎ去った過去の幻影として、現代の日本では完全に失われてしまったものだろうか? 実は、現代の日本を訪れた外国人も、幕末・明治に日本を訪れた外国人と同様の体験を語っている。

 たとえば中国から来て日本滞在20年、今では帰化して大学で中国語を教えている姚南(ようなん)さんはこう語っている。
__________
 これは民族性の違いだと思いますが、日本では一歩譲ることによって様々な衝突を避けることができます。例えば自転車同士がぶつかったときなど、中国ならすぐ相手の責任を求めますが、日本ではどちらが悪いという事実関係より、まず、お互いに「すみません」と謝ります。その光景は見ていてとても勉強になります。

 ある日、混んだ電車に乗っていたときのことです。立っていた私は、揺られた拍子に後ろに立っていた女性の尖った靴先を、自分のヒールで踏んでしまったのです。すぐ「ごめんなさい」と謝ると、その人は微笑んで「靴先は空いているから大丈夫ですよ」と言ってくれました。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 こうした日本人の特性を姚南さんは「民族性」と呼んだ。思いやりと助け合いという「民族性」は、薄れつつも、いまだ現代日本に根強く残っている。

 しかし、こうした社会の徳性は、自然に生じたり、勝手に続くものではない。家庭の中で親が子をしつけ、共同体の中での大人の振る舞いが青少年を無言のうちに教え諭す。そうした一つ一つの行為の所産なのである。

 とすれば、我々の先人が築き上げた幸福な共同体のありようを、しっかり継承し、現代にマッチした形で「大いなる和の国」を再生するのは、我々、現代の日本国民の責務であると言える。



a. JOG(452) 幸福なる共同体を創る知恵http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h18/jog452.html
 幕末から明治初期に来日した欧米人たちが見た日本人の幸せな生活。

b. JOG(484) 美しい国だった日本
「方々の国で出会った旅行者は、みな感激 した面持ちで日本について語ってくれた」http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h19/jog484.html

c. JOG(602) 外国人の見た「大いなる和の国」
「私たちは日本にくると、全体が一つの大きな家族のような場所に来たと感じるの」http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h21/jog602.html

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。